>>オリジナル小説に戻る


 彼は飢えてはいなかったが――いや、飢えていた。

 大きな賭場をいくつも経営する資産家・ミュッセ氏には、子供がなかった。
 結婚して5年、陽の当たる白塗りのテラスにはしゃぎ声の響くことはない。庭にあつらえたブランコも、遊ぶものもなく薄汚れたままだ。
 寂しがったミュッセ夫人が、夫に仔犬をねだったのも無理はない。
 番犬になってちょうどいいし、立派な犬を飼えば住まいにも箔がつく。咥え葉巻のミュッセ氏は快諾した。自分にはなんでも高級なものが似つかわしいと考える彼は、繁殖家に連絡をとり、純血種の黒い仔犬を取りよせた。
 やってきた仔犬は、夫妻にとても可愛がられた。少なくとも3か月は。
 ミュッセ氏が、若いピアノ教師との2人きりの出張に、しばしば出かけるようになるまで。
 残された夫人が、地下室で白い煙を吸いこむとき以外、ちっとも笑わなくなるまで。

 3年後。
 彼は大きな身体を、窮屈になった犬小屋の前に横たえ、怠惰に星を眺めていた。

 夫妻に顧みられなくなってから相当な年月が経つ。それでも、使用人たちにきちんと世話はしてもらっていた。
 堂々たる邸宅を飾るにふさわしい堂々たる犬。それを維持するための世話を。
 彼がこの家にやってきた当時、獣医が書いてくれた餌のレシピは理想的なものだった。挽肉と燕麦とミルク、そして少々の野菜を日に2回。
 実に理想的だった。健康を維持する、という一点のみにおいて。
 世の愛犬家たちが、我が子可愛さについ与えてしまう、チーズやベーコンなどのたまの贅沢。それは程度をわきまえていれば犬の健康を害するものではない。だが、陰気なこの屋敷に勤める不機嫌な使用人たちが、そんな余裕のある発想にたどり着くはずはない。
 決められた餌を決められた時間に置くことなど、誰でもできる。それだけのことだった。

 暦は6月を終えようとしていたが、夜半の気温はまだ低い。
 犬は地面にべったり腹をつけ、虫を追うためにゆるやかに尻尾を振っていた。庭の木々は盛りの季節を迎えて枝葉を伸ばし、頭上では名も知らぬ星座たちがひっそり瞬いている。だがそれらは彼にとって、何ら新鮮なものではない。
 尾の動きがだんだん小さくなり、やがて止まってゆく。併せて、うとうとと瞼が落ちかける。いつものように単調な一日を終えようとしていた。
 そのとき、何かがごく微かに、彼の鋭敏な鼻をくすぐった。
 違和感を覚え、眠りに沈もうとしていた意識をゆっくり引き上げる。あるかなしかの気流が、方向も教えてくれる。何かおかしな――いや、心をかき立てられる、たまらない匂い。
 それに伴う、足音を殺しての移動音。
 さすがに疑念を抱き、黒い犬は頭を振ってその場に跳ね起きた。この1〜2年、まともな散歩には出してもらえてない。だが日頃から、手入れはともかく、面積だけはみごとな庭で放し飼いにされていた。運動不足とは無縁でいられた。
 匂いの主はどんどん近付いてくる。ほどなく相手は、邸宅の周りにめぐらされた塀に、ひたりと取り付いて止まったようだった。
 そこまで確認した瞬間、獣の脳裏には本能的な嫌悪がふつりと沸く。ここは自分の縄張りなのだ。屋敷に住む人間たちに確たる思い入れはないが、ともかく自分のためにも、侵されざる場所でなくてはならない。喉からは自然と不機嫌な唸りが漏れる。
 ざりざり、しゅるしゅると、不審者が塀を登りはじめた。無音に近いたくみな登板だ。
 寝静まっている屋敷の人間には、とても気付くことができない。そもそもこの庭に面している北棟には、使用人のものも含めて寝室が一つもない。肝心のミュッセ夫妻はといえば今夜も留守だ。
 相手はそれらも計算に入れて、この場所からの侵入を試みたに違いなかった。
 ついに塀の上に、ひょっこり顔が出る。若い娘のものだった。
 癖のあるくすんだ金髪、少年のような体躯と服装。顔立ちには愛嬌があったが、油断なくあたりを窺うその眼つきは、不穏な過去を覗かせて足りる。
 黒い犬は鼻に皺をよせ、唸りながら闖入者を見すえた。特に守りたいと思える対象こそないが、領土を侵されるのは許しがたい。
 吠えようと思った。声高に威嚇し、敵意を示そうとした。それなのに――
 なんだろう、この匂いは。
 さっきから辺りに漂い、強烈に訴えかけてくる、この匂いは。
 視線こそ外さないものの、明らかに集中力を削がれて出あぐねている犬の様子を見下ろし、娘はにっこり微笑んだ。
 ひょいと塀の上に乗り、足を揃えて腰かける。ふところから油紙の包みを取りだし、これ見よがしにかさかさと振ってみせる。
 途端に匂いの出どころが判明し、彼ははっと頭を上げる。
 塀の上の娘は、まるで絹張りのソファにかけているかのように、気取って足を組みかえた。貴婦人のようにしなを作ってこう言う。
「――わたくし、初対面の殿方をからかってしまう、悪い癖がありますの」
 『椿姫』の一節とともに包みが開かれ、中身がどさりと地面に投げられた。
 豚の臓物を、血と脂の中によく漬けこんでおいたもの。少しばかり発酵が進んでいるらしく、あたりにはぷんと饐えた臭気が漂う。
 人間が食用とするには傷んでしまった、払い下げの屑肉で作ったものだ。だがこの臭気こそが、彼の意識をくらくらと痺れんばかりに刺激する。もともと犬は腐肉食を好む生き物だ。
 彼は健康で、賢かったが、番犬としては経験不足だった。
 娘は若かったが、狡猾で、入念な下調べを済ませていた。

 彼は飢えてはいなかった。しかし、飢えていたのだ。
 もう長いあいだお目にかかっていない、魂の飛ぶようなご馳走もさることながら――
 自分に向かって声をかけ、視線を投げ、注意を向けてくれる相手に。
 興味を示し、交流をもちかけ、打ち捨てられた長い歳月を終わらせてくれる相手に。

 口元からぽたりと涎が垂れた。
 あわてて横を向き、そのくせ必死で、こっそりと空気の匂いを嗅ぐ。
 高揚感を抑えきれず、投げられた肉塊のまわりをぐるぐると歩き回る。娘の顔と、魅力的な贈り物とを、何度もしつこく見くらべる。
 迷いに迷って、視線をさまよわせ、哀れっぽく鼻を鳴らし――
 そして、ついにちぎれんばかりに尻尾を振った。

 甘い背徳の逢瀬は、こうして始まった。


「あたし、こういう大きなお屋敷から、ほんの少しだけいただくのを専門にしてるの」
 2度目の侵入のとき、娘は犬にそう語りかけた。
 今夜の贈呈品である鶏の頭は、すでに黒い腹の中に収まっている。2度目ともなれば陥落は早い。余人に構ってもらえる快楽に目覚めた獣は、ほぼ心も許し、小さな膝の上に乗せた大きな頭をやさしく掻いてもらっている最中だ。
「金庫の中から、銅貨なら8枚、銀貨なら3枚、金貨は盗っちゃだめ。良心で決めたルールじゃないわ、見過ごしてもらうための工夫よ。大金持ちの中にはね、羨ましいことに、その程度の金額が減ったくらいじゃ気づかない人も多いの」
 娘は自分の言葉を証明するように、ポケットから今日のあがりを取り出した。白い手のひらの上で、3枚の銀貨は鈍い反射光を湛えている。
 初めてこの屋敷に忍びこんだ日、娘はたった8分の鮮やかさで金庫を破った。彼女が得意としているのは、ダイアルに付属した歯車が噛み合うときの蚊の鳴くような音を、自らの耳で割り出す職人芸だ。手間がかかるが、証拠を残さないという利点がある。
 そうして一度ナンバーを控えてしまえば、あとは毎回、ごまんと積まれた貨幣からつつましい額を抜き取るだけでいい。次に金庫の中を見るのが誰であれ、夜のうちに暴かれていたとは思いもしない。もちろん、あまり頻繁に抜いていると発覚しかねないので、頻度を抑えておく必要はある。
 この技術を習得するまでには、相応の努力と経験を要した。幾度となく危ない目にもあっている。しかし、一晩の盗みで得られる稼ぎは、彼女のような貧しい市民が真っ当にあくせく稼ぐ金額の、約2か月分にも相当する。
 一度覚えてしまうと、とても自主的に止められる稼業ではなかった。
「当然、できるだけ金銭管理がだらしない家を狙うのが条件だけどね。このお屋敷なんか最適だわ――なにしろご夫婦の生活がすっかり別々。帳簿がかなり曖昧なことになってるんじゃない?」
 執事や侍女あたりも、きっと叩けば埃が落ちるわよ。そう言って娘はくくくと笑った。
「ご亭主はろくに帰らず、奥様は地下室で阿片漬け。使用人たちは夜っぴて台所でワインの盗み飲みに大忙し。あとは自制心との勝負ね、あたし自身がどれだけ欲をかかずにいられるか……なあに、盗っ人が無欲を気取るなんて、図々しいって?」
 娘は、寝ころんだまま手をべろべろ舐めてくる犬の胴体に覆いかぶさった。さらけ出された脇腹を優しくくすぐってやる。犬は身をよじって暴れたが、それも甘えの動作だ。
「宝石や貴金属にはよく誘惑されちゃうわ。これ一個で幾らになるか考えると、ちまちま盗むのが面倒に思えてきて……でも、それこそすぐばれちゃうから……」
 娘の手が、ふと止まった。
 犬は首を回して立ち上がり、次はどんな遊びをするのかと眼を輝かせる。だが、黒い頭を撫でかえしてやる手の動きは単調だ。
「……物品の転売は面倒なのよ。足もつきやすいし……」
 ぼんやりと下に落とされた相手の視線を、犬は不審に思った。自分のほうを向かせようとして、指を甘噛みする。
 次の瞬間、娘は急に、ぐっと自分の顔を犬に近づけた。
「ねえ、あたしがちまちま盗むだけの小悪党だと思ってる? とんでもないわ、大物を奪った話を披露してあげる」
 おどけて囁くと、小さい子供にするように、犬の両頬を手でめちゃくちゃに揉みこする。
「むかしある都市で、その街でいちばん金持ちの婆さんの家に忍びこんだの。銀貨を2枚いただいて帰ろうとしたんだけど、興味本位で婆さんの宝石棚を覗いてみたら」
 あるものに眼が留まったの。興奮した口調がそう続けた。
「楕円のオパールが1個だけついてるちっちゃな指輪。高くはなさそうだったけど、上品だとはいえなくもない。ちょっと色気出して、持っていくことにしたの。これ一つ失くなってもばれないと思ったし。だって年甲斐もなく、ばかばかしいほど大きな螺鈿細工の扇子やら、悪趣味なきんきらの煙草入れやら、いっぱい持ってる婆さんよ?」
 ぎこちない笑いを唇に刻んで、彼女は言葉を継ぐ。
「そしたら翌朝にはもう大騒ぎ。婆さんたら、指輪が失くなったことをそこらじゅうに触れまわったのね。使用人総出で屋敷を探して、それでも見つからないって警官を山ほど呼んで、街ぐるみで大捜査。あたしが昼に勤めてた小間物屋にまで聞きこみが来たもの。背中じゅうに冷や汗かきながらお愛想したわよ、『何処かで見かけたらきっとお知らせします』ってね。そのあと、思い切ってこう尋ねたの。『それにしても……お気を悪くなさらないでね。お話のかぎりだとその指輪、富貴で知られる奥様のものにしては、随分ささやかに思えますけど』。聞きこみに来たのは屋敷の女中だったけど、待ってましたとばかりに喋りはじめたわ。『あの指輪は、奥様のひとり娘が、初めて奥様の誕生日に贈られたものなんです。まだ6歳だったお嬢様が、お小遣いを懸命にこつこつ溜めてね。来年はもっといいものをお母様に差し上げるの、と可愛らしく仰っていた矢先に……旦那様と一緒に、馬車の事故で亡くなられて』…………」
 睫毛を伏せた娘の長い告白を、黒い犬はおとなしく聞いていた。
 言葉の意味は理解すべくもない。ただ、この人間はどうやら、今は自分と遊びたくないらしいということは判断できた。
「……返したかったわ。返したかったわよ。でもあんなに警戒されちゃ何もできないじゃない。匿名で送りつけようか、人に頼んで届けさせようか、色々考えたけど、警官が山ほど出入りしてればすぐ足が付くわ。あたしだって捕まりたくはないもの。でも解ってるわよ。あたしのせいなのよ」
 娘は早口にまくしたて、それきり黙った。
 沈黙に焦れた彼が、顔を覗きこもうとすると、逃げるようにゆらりと立ち上がる。
「だいたい、あたしが遠慮する必要があるの? 6歳の子供が指輪を贈るだなんて、6歳の子供から指輪を受け取るだなんて。贅沢なおままごとだわ。あたしが6歳の時分には泥水啜って一日過ごしてたわ。そんな恵まれた人達のために、あたしが気を揉まなきゃならないの?」
 呟きながら、のろのろと塀のほうに歩み寄る。言葉の激しさとは裏腹に、小柄な娘の背中はなお小さかった。
 あらぬ方向に向けたその表情は、誰からも見えず、誰にも見せないものだろう。
「…………婆さんは3か月後に死んじゃった。軟弱者だと思わない?」
 無論、犬は是とも非とも言わない。
 娘は地を蹴り、いつもよりは少しだけ音を立てて塀を登りはじめた。向こう側にどさりと降り立ち、心なしか鈍い足音を残して去ってゆく。
 残された彼は小さく鼻を鳴らした。また来てくれるだろうか、それだけが気にかかった。


「あんたって、乳母日傘で、いいもん食べて育ったんじゃないの?」
 4度目の侵入のとき、娘は、そう言って黒い頭をかるく小突いた。
 相手のちょっかいに応じようかとも思ったが、今はそれどころではなかった。牛の大腸を噛みちぎっては飲みこむ作業に精を出さねばならない。
「それにしちゃ最初からがっついてきたわね。あたしとしてはやりやすかったけど……ちゃんと餌をもらってないのかしら」
 そうでもないか。娘は、肋骨が浮いているわけではない脇腹を眺めてひとりごちた。
「でもあんた、小さい頃にはもっといいもの食べてたくせにね。水牛のミルク、子羊の腰肉……なんでそんなこと知ってるかって?」
 卑屈な視線を投げながら、娘は犬の前にしゃがみこむ。
「あんたみたいな純血種になると、下手な人間よりも氏素性がはっきりしてる。このへんで有名な犬の繁殖家といえばフロベール家……あんた多分、あの犬舎から貰われてきたんでしょ。そこで私の友達が下働きしてたの。だからフロベール産出のお犬さまたちが、どんなメニューで育ったか知ってる」
 人間に世話をされ、人間に奉仕されて育った生き物を、彼女は靴の先でつつく。
「あそこでの仕事は重労働だったそうよ。主に精神的にね。自分はすっぱい黒パン1枚しか食べてない日でも、朝昼晩、犬に食べさせるラム肉を運ばなきゃならない。軽く炙られていい匂いのする上等のラムチョップを、何枚も何枚も。……気が狂いそうだったって言ってたわ」
 恨みごとを聞き流しながら、彼はといえば、ゆっくり口のまわりの掃除を終えた。
 渇いた表情で自分を見下ろす相手に、媚びたっぷりに小首を傾げる。さあ、今日は構ってくれないの? 耳の後ろを掻いたり、背中の毛を梳いたりはしてくれないの?
 無垢そのものの双眸を前に、娘は溜息をついた。
「人間以上の産まれのあんた、犬以下の産まれのあたし。いわゆる身分違いものってやつ? ちょうどいいわ、あたしの十八番は『椿姫』なの」
 娘は、犬小屋の脇に置かれた大きな植木鉢に歩み寄ると、くるりとひっくり返した。
 振り向きざま、ふ、と妖艶な表情をつくる。裾の長い夜着を着ているような足さばきで、優雅に植木鉢に腰かける。
 ふところから長煙管を取り出し、慣れた仕草で火を付け、吸うパントマイム。もし見るものがあれば、その技量がある程度の水準に達していることに気づいただろう。
「――ねえあなた、いったい誰を相手にしているおつもり? わたくしは生娘でもなければ、公爵夫人でもありませんのよ」
 犬はきょとんとしている。娘は毅然としたまま、娼婦マルグリットの表情を保っていたが、やがて眉を下げてくつくつと笑い出した。
「だめよアルマン、そこはこう。僕があなたを愛するほどに、あなたを愛する男などひとりも居ない――言ってごらんなさい」
 相手役を命じられた男は、しかしそっぽを向き、後肢でがりがり耳の後ろを掻いた。高級娼婦と青年貴族の悲恋物語など、彼にとっては毛ほどの意味もない。
 娘は、犬の頭をぎゅっと抱きよせながら、こう言った。
「あたし、女優なの。……寄せ集めの素人劇団のね。貧乏市民や百姓たちが集まって、5月の柱祭りでどたばた喜劇をやったり、冬には生誕劇をしたり、まあお粗末な河原ものよ」
 卑下する言葉とはうらはらに、彼女の口調は、次第に熱を帯びはじめる。
「でも、でもよ。このあいだ都から来た商人が教えてくれたの。『椿姫』、2年ぶりの再演! 場所は麗しのヴォードヴィル座! そして、なんと、なんと、俳優を公募!」
 娘は声を殺して言い放ち、見えないスカートの裾をつまんでくるくると踊り出した。
 洗練された動きとは言いがたかったが、見せることを意識した流れるような所作は、それなりの場数の多さを感じさせる。
「……解ってるわ、いくらなんでもマルグリット役はプロから選ばれる。オランプもプリュダンスも、きっと有名な学校の子が選ばれる。でもナニーヌかジュリーなら演れるかもしれない。ううん、役を貰えるんなら、『街の婦人その3』だって上出来よ。それが駄目なら、だれか女優に取りいって、雑用兼見習いくらいにはなってみせるわ。せっかくのチャンスだもの……!」
 自分の覚悟を、決意を、唯一の聞き手は共有できていない。そうと知っていても情熱を語る口はなかなか止まらなかった。なにしろ気後れもあって、仲間の劇団員にも話していない。
「ただ、その前に、超えなきゃならない試練があるの。公募チラシの一文をあたしは見逃さなかったわ。『ヴォードヴィル座までの交通費、期間中の滞在費は各自ご負担ください』……ああ! 大都市で、安宿にたった一晩泊まるだけで、いったい幾らかかると思う? あたしにはお金が要るの。あんたみたいな高級犬だって、ひと山いくらで買えちゃうお金がね」
 娘はぴたりとステップを止め、今度は思案顔でうろうろとあたりを歩き回り始めた。動物園の狭い檻に入れられた熊のように。
「この稼業のおかげで金はだいぶ貯まったけど、まだまだ足りない。選抜会が行われるのは来年1月、それまでにあと何回、盗みに入れる? 標的は他にもあるけど、一番守りが薄いのは結局ここ。あんまり頻繁に侵入して、感づかれたら元も子もない……でも、間に合わせないと……」
 悩み多き夢追い人の、せわしない足運びを眺めながら、黒い獣はかぼそく鼻を鳴らした。彼女が楽しそうなのはいいが、彼女だけが楽しそうなのはつまらない。
 娘は、相手の態度に気づくと、しゃがみこんで視線の高さを合わせた。鼻をかるく指で弾き、口先にキスを落とす。
 そうしてから、ついさっき自分が与えてやったご馳走の生臭さに、ぐっと顔を顰めた。


 12月に入った時点で、娘のミュッセ邸への侵入は5回を数えた。
 盗人は冬を嫌う。窓は固く閉ざされて鍵のかけ忘れが激減するし、寒さは身をこわばらせてとっさの動きを鈍らせる。雪など積もった日には、足跡がついて厄介だ。
 それでも彼女は、今、稼業を中断するわけにはいかなかった。
 これまでの貯金、なけなしの持ち物を売った金、日々の生活を切りつめて得る小銭。それらすべてをかき集めても、交通費と滞在費にはいま少し足りない。
 だが、いま少しだ。あといくらか追い銭をすれば、長年追い求めた夢の、尻尾なりとも掴むことができる。今日を最後にしよう――娘は口の中でそう決意し、長年愛用している底の柔らかいブーツの紐をきつく結び直した。
 半年間に、同じ標的から6回めの窃盗。これは異例の頻度だった。普通なら発覚を恐れて、ここまでは繰り返さない。いかにミュッセ邸が盗っ人にとって好条件だったとしても、普段の彼女ならばすでに自制して手を引いている。
 目的のために、自分がやや焦っていることは自覚していた。だからこそ今夜、最後の技量が問われることになるだろう。娘は深呼吸して、わざとゆっくり自宅のドアを閉めた。ヴォードヴィル座で、役をもらえれば上出来、せめて見習いになれれば良し。何かしら舞台に関係した仕事に就いてみせる。不退転の覚悟で旅立つつもりだった。
 見上げれば幸い、冬の夜空はよく晴れて金銀の真砂が美しい。雪の心配はなさそうだが、霜には気をつけなければならない。あれもくっきり足跡が残ってしまう。
 ミュッセ邸に到着した彼女は、手慣れた登坂を開始した。塀の上から見下ろせば、もはや見知った逢瀬の相手が、ちぎれんばかりに尻尾を振って迎えてくれる。今宵の口止め料は、知り合いの肉屋からもらった豚の足の腱だ。
 ぐるぐると喜びの声をあげてかぶり付く犬の横をすり抜け、娘は本邸へ向かう。いつもなら頭の一つも撫でてやってから仕事にかかるところだが、今日はその気になれない。自分の緊張に気付き、彼女はひたひたと己の頬を叩く。なに、無事に仕事を済ませたあとで、存分に別れを惜しんでやればいい。おそらく二度と逢うことはないのだから。
 落ち葉を踏まないよう気を付けながら、身を屈めて闇を駆ける。金庫を置いた部屋があるのは母屋の3階だ。進入口の窓は見上げる高さにあるが、窓枠や雨どいをつたってそこに辿りつくことは、彼女にとっては梯子をかけて登るのと同じくらいたやすい。
 目的の窓の下に立ち、建物を見上げる。すぐそばにマロニエの樹が植えてあるのも大助かりだ、いい死角を作ってくれる。
 お馴染みの作業だった。まずは窓枠の強度を確認する。面倒がってはいけない、某宅にて、劣化に気付かず体重を乗せた途端にばきりと壊してしまい、慌てて逃げ出したとき以来の教訓だ。
 慎重に足をかける。次に手をかける煉瓦の隙間を確認し、ゆっくり腕を伸ばす。
 その時、夜を忍ぶ人生を送ってきた彼女の耳が、ある気配をとらえた。
 雲の上で風が鳴る音にも似ている。だがそれは、遠い街並みに反響しているからに過ぎない。近づくにつれ少しづつ、がらがらと車輪の回る響きだと聞き分けられるようになる。併せて金属の部品が揺れる音、石畳を蹴りつけるいくつもの固い音。
 まぎれもなく、馬車がこちらに向かって来ていた。
 まさか、まさかと思いながら、娘は素早く地面に伏せる。そのまま通りすぎればよし、だが通りすぎなければ? 次第に大きくなる蹄の音に合わせて、鼓動が跳ね上がる。
 一定のペースで近づいてくる振動と気配。さんざん焦らされたあげく、それは案の定ミュッセ邸の前で止まり、娘は思わず小さく呪いの言葉を吐いた。帰ってきたのだ、こんな時間に!
 これだから放蕩者は嫌いなのよ、と彼女は自分を棚に上げて心中で毒づく。だが大丈夫だ、まだ身を隠す余裕はある。馬車は門の前についたばかりだし、使用人たちがひどく酔っているであろう主人を降ろすのにも手間がかかる。
 いま自分がいるのは母屋の横手。彼らが馬車から降りてまっすぐ玄関に向かうだけなら、ここに伏せていてもいい。だが馬車を置きに行く御者はどうだ? 厩舎は母屋の裏にある。この場所を通られたらまずい。ちょっと距離があるが、人目につかない棟の陰に移動するべきか。
 迷っている暇はない。心を決めて走り出そうとしたその時、ふと、そばに立っているマロニエの樹に目が留まった。
 経験と照らし合わせて瞬時に計測する。この枝ぶりなら、私なら12秒で登れる。
 まったくの無音とはいかないが、幸い馬車の中からは、ミュッセ氏がぶつぶつと酔いまかせの戯言を付き人にぶつける声が漏れている。注意を引くことはないだろう。
 娘は、猫のように幹に飛びついた。乾いた樹皮を剥がさないように急いでよじ登り、人の視界よりも高い位置から出ている太い枝にぴったり抱きつく。こうしていれば、闇を透かして眺めても樹の一部にしか見えない。その姿勢のまま微動だにせず、人々が通りすぎるのを待つ。
 門扉の開く重々しい音、馬車に付けられたステップの軋み。それと共に、主人を迎えるために別棟から出てきた使用人たちの声。
 「足元にお気をつけください」、誰かがそう言った直後、鈍い音がして小さな悲鳴が走る。音からでしか状況を判断できなかったが、だいたいの出来事を把握して、彼女は眉を顰めた。ミュッセ氏が、忠告してきた召使いを生意気だと感じ、ステッキか何かで打ったのだろう。
 停まっていた馬車がまた動き始めた。がしゃがしゃと鳴る馬具の音が、ほぼ真下を通っていくのを感じ、娘はこっそりと安堵の息をついた。
「来い」
 ろれつの回らぬミュッセ氏の声がした。危なっかしい不規則な足音、そのあとを追う控えめな靴音。続いて、どさりと腰かける気配。
 ふう、と大袈裟に息をつく音を聞きつけ、娘は天を仰ぎたい気持ちになった。どうやら彼は、前庭のベンチでしばらく酔いを冷ますつもりらしい。
 少し距離があるので見つかる可能性は低いが、しばらくここから動けないだろう。来いと命じられたのは恐らく執事で、他の召使いたちは、上着と帽子を受けとって家の中に戻ったようだった。
「……儂はな、記憶力は大したものなんだ」
 アルコールに濡れた声がする。地声が大きいおかげで、聞きとるのは難しくない。
「帳簿なんぞつける必要はない、儂に任せておけばな。その儂が言うんだ。いかにも減っている、そうだろう、え?」
 しつこく絡むような調子で同意を求める。執事といえば、左様ですか、とうんざりした気持ちを押し隠すので精一杯のようだ。
「吝嗇から言うんじゃないぞ。舐められるのが我慢ならんだけだ。誰なんだ? 家内の腐れ親族どもか?ふん、単に、あれの阿片代がかさんでいるだけかも知れんがな」
 そこまで聞いて、娘は会話の内容をうすうす悟った。ミュッセ氏はどうやら、金庫の中身が減っていることに気づいているらしい。やはり焦りすぎたか、と唇を噛む。
 今までどおり、自分の生活費に充てるだけの額なら気付かれなかっただろう。予想通り、ヴォードヴィル座までの交通費と滞在費とが重圧になったのだ。いかに金銭管理に難のある家庭でも、確かにこれだけ抜きとられれば気付かれてもおかしくない。
「金貨が5枚、銀貨は少なくとも13枚だ! 繰り返すがな、吝嗇から言うんじゃないぞ」
 樹上の娘は、あやうく吹き出しかけたのを必死にこらえた。金貨が5枚?
 自分は決して信念を曲げていない。誓ってもいいが、金貨は一枚たりとも盗っていない。ということは、金を抜きとった人間が他にもいるか、ミュッセ氏が自賛する記憶力に難があるかのどちらかなのだ。どっちの可能性も高そうね、と娘はひとり瞳を細めて口の端を上げた。
「他のなんらかの要因で、減っているという可能性は……」
「儂の采配を疑うのか!?」
 割れ鐘のような声で凄む。応対する執事の声はますます消え入りそうになり、聞き取るのが難しくなってきた。
「滅相もございません。ただ、近ごろ急な出費が多うございましたし……出入りの業者もどこまで信用できたものか……あるいは空き巣の可能性も……」
「金庫に入っているのに、なにが空き巣だ」
「お言葉ですが、あの金庫は少々型が古うございます。その筋の盗人なら破れぬものではないでしょう」
 娘は身を固くした。おお、胆が冷える。彼らは可能性の話をしているのであり、明確な証拠を掴んだわけではない。そうと承知していても、さすがに平静ではいられない。
「一理あるかも知れんな」
 ミュッセ氏は苦々しく認めた。よし、明日は調度の店に行くぞ、と不必要な大声で喚く。かつかつと地面に打ちつけられるステッキが喧しい、さぞ減りが早いことだろう。
 明日の予定が決まったことをきっかけに、屋敷の主はベンチから立ち上がったようだった。2つの足音が正面玄関のほうへ去っていく。いいか、お前ら使用人にも隙がある。当番を組んで夜回りでもしていろ。そう怒鳴りながら遠ざかる声に、娘はやっと胸を撫で下ろした。
 ふと、足音が止まった。
「そういえば、庭には犬がいるだろう。吠えなかったのか?」
 執事は数秒ほど、答えを探して沈黙した。犬を飼っていることを知らないわけはないが、普段から存在を意識していないらしい。
「そのような報告は受けておりません」
「役立たずめ。何のために飼ってやってるんだか解らん」
 空き巣の仕業だと確信できたわけでもないのに、ミュッセ氏は苦々しく吐き捨てた。だがそこで、神経質に鳴らされていたステッキの音がふと止まる。
「無駄は好かんな。せめて役立たせるとしよう。新しい猟銃の具合を試してみたい」
「……無用な殺生は、美徳とは申し上げがたいですが」
 注進する声に力はなかった。念のため口に出してみたという程度のものだ。
「そのへんに杭を打って、犬を繋いでおけ。儂は銃をとってくる」
 了解いたしました、と、声だけでも解るほど無表情に執事が返答する。
 それきり会話はなく、男たちの足音は連れだって母屋へ入っていった。

 扉が閉まる音を聞くが早いか、娘は、マロニエの樹から飛び降りた。
 下は柔らかい芝生で、着地の瞬間にも受け身をとったので大きな音はさせていない。次の一秒で体勢を立てなおし、そのまま転がるように走り出す。
 あくまでも無音、しかし迅速に。屋敷の北棟に向かって。
 執事が物置から杭を運びだし、主人のための射的ごっこの準備を終えるまであと数分。それまでに犬小屋にたどりつき、人目につかない場所からあの子を逃がさねばならない。
 蔦のアーチを駆け抜け、アザレアの植えこみを飛び越して娘は疾走する。足の速さには自信があるが、とにかく余裕はなかった。
 北棟の角を曲がると、彼女の姿を視界に認めた犬が、足どり軽く駆けよってきた。いつものように、遊んでもらえるのだと勘違いして飛びつこうとする。その首輪を掴んで捕まえたはいいものの、次に取るべき行動に困って、娘はあたりを見回した。
 絶望的な高さの塀にぐるりと囲まれた邸宅。自分一人ならするする登るだけだが、犬はどう逃がせばいい?
 大型犬なのだ、抱えたまま塀を登ることはできない。すべての門には当然、錠前が下りている。破れぬものではないが、今は時間がなさすぎる。外界へじかに通じる門の錠は、そのまま防犯に直結するため構造も複雑だ。解いている間に見つかってしまう。
 腰に結わえた雑嚢にはロープがある。これを犬の胴にくくりつけて引き上げようか? だが身軽を信条とする自分は、その代償として腕力に恵まれていない。自分とほぼ変わらぬ体重の生き物を、ロープ一本で、しかもたった数分であの高さまで引き上げられるとは思えない。
 こん、こん、と木槌の振動が遠くに響いた。前庭の土に杭が打ちこまれてゆく音。
 娘はびくりと身を震わせた。無意味に動きまわりながら必死で模索する。屋敷の下調べは事前に済ませてあるが、この犬が抜け出せるような隙間に心当たりはない。この体積が通れるということは人間ひとりが通れるということだ、そんな大穴が都合よく放置されているはずもない。そうだ、郵便物や届け物を渡すための受け取り窓ならすぐ破れるのでは――いや、駄目だ、そういうものは正門の横に作りつけてある。正門は前庭に面しているから丸見えだ。
 どこか塀がもろくなっている箇所はないか? モルタルが劣化して、自分の足でも蹴破ることのできそうな箇所は? 犬の首輪を掴んで引きずったまま、娘はへばりつくように煉瓦の塀を調べはじめる。たとえ多少傷んでいる箇所を見つけたとしても、そう簡単に穴を貫通させられるわけはないが、何もせずにはいられない。
 杭を打ちこむ音が止んだ。同時に、母屋の扉が開かれて、また閉じる音。
 ミュッセ氏がなにごとか、声高に喋りちらしているのが聞こえる。この距離では聞き取れないが、恐らく、自慢の猟銃について執事にご高説を垂れているのだろう。
 万策は尽きた。
 娘は犬の首を強く抱きしめた。事態を把握していない犬は、ふんふんと鼻を鳴らし、前足を彼女の体にかけようとしてもがく。哀れさと胸糞の悪さとに、思わず舌打ちをする。なんという愚劣な男、なんという気の毒なこの子。
 未練は残るが、もうどうしようもない。労わるようにしっかり頭を撫でてやる。この半年間、美味しいものを食べさせてあげられた。せめてそれだけは良かったと考えよう。
 もはや一刻の猶予もなかった。後ろ髪を引かれる思いを絶ち切って、娘は腰を上げる。見つかる前に行かなければ、と急いで踵を返し、


 だが、娘は、その場に凍りついた。


 振り向いた目の前に――『彼女』が立っていた。
 自らの愛した冬咲きの紅い花の姿をして、そこに根を下ろし、自分たちをじっと見ていた。

 時は停止し、無音が場に満ちる。
 なすすべもなく瞳を閉じる。

 見られていた。
 椿の花に――椿姫に、見られていた。

 本当は解ってた。この子は死ぬ。血管や内臓や粘膜を抉られて死ぬ。一発、そしてもう一発と撃ちこまれて、眼がぐるりと白く反転する。いっさいの意味もなく、苦しむためだけに苦しみぬいて死ぬ。本当は解ってた。わざと考えなかった。あたしが来なければこの子は死なずに済んだ。原因を作ったのはあたし。引鉄を引くのはあたし。この子はあたしに殺される。

 だが、もう一歩も進めなかった。
 マルグリットがそこに立っている。
 愛のために、自ら打ち捨てられることを選んだ高潔な女が、前に立ち塞がっている。
 一夜の戯れに、自分が演じた女が、逃げるための道を塞ぐ。


 やがて決断が、その過酷さとは反して穏やかに、水辺に舞い降りる鳥のように訪れた。


 目的のものはすぐ見つかった。近くに薪置き場があったのだ。
 適度に重い一本を手に取る彼女のまわりで、黒い犬は、無邪気に跳ねまわっていた。何を疑うこともなく、早く遊ぼうと身を低くしてねだってみせる。
 娘は片手に太い薪を持ち、もう片方の手で再び犬の首輪を掴み、ふりほどかれないようしっかりと握りこんだ。
 勢いよく薪をふりあげ、その姿勢のまま、しばし表情に迷う。
 やはり笑おう。そう判断すると同時に、椿姫が、娘の唇を借りて愛するものに囁きかけた。

 「わたくしはあなたの犬――ご自由になさるといいわ――わたくしは、あなたのもの」




 獣の声を、彼らは聞いた。
 夜を引き裂く悲鳴は甲高い。きゃん、ぎゃいん、と何度かしつこく続き、耳朶に鋭く突き刺さる。
 男たちは顔を見合わせた。何事か起きたのは明白だ。
 ちょうど手に得物のあることもあり、声のした方向へと急ぐ。つい先ほど交わした会話の中で挙げられていた、一つの可能性が、いやでも脳裏を占める。
 はたして予測は当たっていた。
 そこにあったのは、『犬に吠えられてその場に座りこんで』いる、泥棒の姿だ。
 彼らにいま少し、生物の知識があったなら、先刻の声はとても威嚇の声ではなかったと気付いたかもしれない。あるいはもう少し注意深ければ、犬が相手に牙を剥くではなく、噛みつくでもなく、ただ混乱して鳴き叫んでいることに気付いたかもしれない。
 だがそれらは全て、眼の前の罪人を捕縛することに優先されるものではなかった。
 そばに落ちている棒も、侵入者が、番犬と戦おうとして持ち出したものだと判断された。

 ひとりと一匹の運命を乗せて星が巡り、何の変哲もない朝が来た。




 怒涛のような夜が過ぎ、やってきたのはいつも通りの日々だ。
 彼には何も理解できていない。普段過ごしている広大な庭の様子が、どこか変わったわけではない。犬小屋の前に置かれる餌の内容が、なにか変わったわけでもない。
「気性の丸い犬だと思ってたけど、やっぱり番犬なのね」
 そう言いながら横を通りすぎる洗濯婦たちの会話を理解すべくもない。すべてはいつも通り――だが、彼の愚かな脳にも留めておけるものは、確かに遺されていた。
 芝生を駆けると、打たれた背中がまだ少し痛む。
 食事に物足りなさを感じ、彼女の持ってきてくれた馳走を想いおこす。
 頻繁に会っていたわけではない。だが、いつも優しかったはずの彼女が最後にくれた惨い仕打ちは、彼の記憶にも朧げなしこりを残していた。それでも、このまま単調な日常を何ヶ月か続けてさえいれば、知恵無き身分の獣はすべてを忘れてしまえただろう。
 ほんの数日後のことだった。
 地下室で暗い遊びに興じていたミュッセ夫人が、朦朧としたまま、タペストリのすぐそばに燭台を置いてしまったのは。
 炎はじっくりと毛織物をつたい、たちまち地下室の天井を焦がした。夫人は夢うつつの中、いつもとは違う煙を肺いっぱいに吸って死んだ。深夜ということもあって発見が遅れ、火は換気口をのぼり、庭木を介して、母屋の一部までも赤く舐めた。
 まず悲鳴、次いで叫喚と喧騒。屋敷は瞬く間にあらゆる音に満ちる。使用人たちが水を汲みだして運んだが、脆弱な水道管ではとても足りない。男衆が天水桶や近所の井戸に走る。
 門が開け放たれ、鈴を鳴らしながら消防馬車が手押しポンプを担ぎこむ。広い敷地に、人々と器物と馬たちとがにわかに溢れかえる。怒号と煙の充満する中、未知の恐怖に怯え、半狂乱になって逃げまわっていた黒い犬を記憶しているものは少ない。
 暁の中、煤と水とでぐしょぐしょの人々が、寒さに震えながら黒こげの棟木を見上げる。そのころには、やっとこの家での存在価値を認められたはずの彼は、何処かへと去っていた。


 救貧院からの帰路は永遠にも感じられた。
 福祉の殿堂とは名ばかりの掘っ建て小屋で、いくばくかの薬を貰うために3時間も並ばされたが、どうでもいい。やっと順番が回ってきたと思えば、その薬もまるで鳥にパン屑をやるように床にほうり投げられたが、どうでもいい。
 引きずるような歩みは、そういう屈辱や疲労のせいばかりではなかった。
 間借りしている長屋の、腐りかけた裏木戸を開ける。ぎいい、と鳴る馴染みの音――数日前までは、この音を聞くのもあと少しだと感傷に浸っていた音。
 だが今はもう、それから逃れられぬことの決定した、貧困と空腹と暗澹の音。
 2階の自室に上がるため、外壁に作りつけられた階段に向かう。長屋の敷地は全体的に水はけが悪く、常にじめじめした臭気を漂わせている。
 はっ、はっ、と短い吐息の音に、俯いて歩いていた彼女は顔を上げた。
 「………………」
 すべての感覚が澱んでいる疲れきった脳に、その事実が、なかなか理解できなかった。
 身分違いの青年貴族、彼女の黒い恋人が、尻尾を振って階段の前に立っていた。

 やがて緩慢に思いおこす。ミュッセ邸の一昨日の災事については、彼女も聞き及んでいる。
 その騒ぎに乗じて、というより、わけも解らず逃げ惑っているうちに敷地を出てしまったのだろう。火事場は混乱を極めるものだ。解放された門から逃げてゆく飼い犬ごとき、誰も追いはしない。
 彼は嬉しそうに娘の近くまで駆けよったが、寸前、飛びつくことはしなかった。勢いのやり場に困り、上目遣いのまま匂いだけを嗅ぐ。
 ほとんど出たことのない外の世界に怯え、彷徨い、せめてもの頼りとして彼女の匂いを探しまわった。だがこうして巡り会えたはいいものの、本人を眼の前にすると、やはり手酷く殴られた記憶が未だ新しい。頼ってよいものかどうかの判断がつきかねた。
 戸惑う獣を前にして、娘は、幽鬼のように青白く微笑んだ。
「……警察は呼ばれなかったわ」
 ひらひらと犬に手招きをする。しゃがんで顔の高さも合わせてもらえたものの、彼はまだ窺うような様子で耳を伏せる。
「私もそれに賛成よ。たかが小娘のこそどろ、内々に処理すればいいことだもの……」
 呼びかける声と動作はあくまでも穏やかだ。痛覚の記憶よりも、現状の心細さを解消したい欲求がついに上回り、犬はくんくん鼻を鳴らしながら相手にすり寄る。
 娘は両の手をのべて、よく今までそうして可愛がってきたように、犬にぐっと顔を近づけた。
 今までと違うのは、寸前、自分の顔に貼られたガーゼをべりべりと引き剥がしたことだ。
「お気に召して?」
 幾本かの指を欠いた両の手で、犬の頭を包みながら、娘は甘やかに囁いた。
 ガーゼの下では、まだ乾ききらぬ赤黒い爛れが、かつて快活に輝いていた両眼を潰していた。周囲の肉は醜悪に縮み、炭化した皮膚が剥がれきらずに貼りついている。
 盗人に対する憎悪が、火ごてを押しあてる私刑という形でありありと痕跡を残していた。
 眼と手指を奪うことは、再犯の被害を防ぐためのもっとも有効な策だった。

 犬は、その質問には応えず、頭をぐいぐいと彼女の胸元に押しつける。
 相手の様子に、どこか尋常でないものを感じこそすれ、今は自分の不安を煽られたくなかった。
 一昼夜も知らないところを歩き続けて怖かった。早く慰めてほしかった。

 娘は、喉だけで掠れた笑い声をあげた。
 低く、高く、奇妙に音を移動させながら笑いつづける。犬の耳や、鼻や、牙のあたりに、ひっきりなしに何度もくちづけを落とす。
 余人が見れば間違いなく、狂女だと思ったことだろう。
「どうするの、家に帰らないの、帰りたくないの? あたしと居てもいいことはないわよ。ただ一つあるとすれば、歴史的な名役を与えてあげられること――黒犬にまとわりつかれて破滅するあたしは、同じマルグリットでも、今度は『ファウスト』のマルグリットだわ」
 彼女は立ち上がり、ぼろぼろのショールの前を丁寧に合わせた。町娘マルグリットが劇中でそうするように、労働で荒れた手を恥じて、あどけなく微笑もうとする。
 しかしその姿は、生憎と、敬虔で素朴な愛らしい町娘には見えなかった。
 そこに居るのはどこまでも、不具を抱えたただの女だった。
 無理に顔に貼りつけられた、引き攣れたような笑みが、次第に薄れて寒い大気に溶け出してゆく。ついに娘は天を仰いだ。
 涙すら流せぬと、このとき初めて実感した。

 同じ姿勢のまま彼女は呟いた。
 もはや陶然と、半ば口ずさむように。
「いらっしゃいメフィストフェレス、あたしの黒犬、あたしの悪魔。大きな螺旋の環を描きながら、走るあとに炎の渦を曳いてついて来るのよ」

 娘は胸元をさぐり、いつも首に着けている、安物の細い鎖を取り出した。
 その先端には、小さな貴金属が下げられていた。
 楕円のオパールが1個だけあしらわれたささやかな指輪。

 自分にじゃれついてくる犬を捕まえて、手探りで首輪の金具に鎖を巻きつける。
 黒い毛皮を背景に、とりとめなく銀色の線が揺れ、その先に石の色が遊ぶ。


 罪の娘と罪の獣は、寄り添いあって階段を上り、同じひとつの扉に呑みこまれて消えた。


Fin.



2009/12/11


>>オリジナル小説に戻る