>>オリジナル小説に戻る


 「何度言えばわかる。そうではないよ、プレザンス」

 初心者に手ほどきを押し付けたがっている経験者の言――ではなかった。
 もっと性質が悪い。
 はなから出来ぬと解っている者に無理にやらせて、まんまと失敗するのを心待ちにしていた声だ。
 そうと解っていてもレーゼは、少年の意地の悪い笑顔を睨みつけたりはしなかった。反抗など考えたこともないが、それは相手の名の下につく尊称を気にしているからではない。
 17にもなってまだ稚気の抜けきらぬ子供を相手に、いちいち本気で怒っていては身が保たないだけだ。

 少年は身を乗り出して、彼女の前に置かれた釣り竿の上に屈みこむ。
 やや距離が近すぎると感じ、生真面目にレーゼは身を引く。彼と引き合わされて11年、身体的にも精神的にも慣れが生じることを彼女は厳密に自らに禁じていた。
 よく見ておけ、と言われて視線を落としはするが、つい洩れてしまう溜息は抑えられない。敗色濃い戦のさなか、疲弊しきった兵を率いての突貫を命じられても臆しはせぬ。敵将のまたがる駿馬の目を射ぬけと言われたらやり遂げる。
 だが、喰うに困っているわけでもない道楽の釣りのために、特殊な糸結びなど覚えさせられるのは……そのどちらよりも彼女には悩ましい。

 ひゅん、と小気味よく竿が唸り、白い糸が紺碧の空を真っ二つに割る。
 小さな飛沫の上がる遥かなその地点は、つい先ほどにも釣り針を投げ入れた場所とほとんど違わない。
「ご上達なさいましたな」
「ああ、確かに3ヶ月前は、主な獲物として自分を釣っていた」
 応じながら少年は竿を小脇に抱えなおし、手にした箱の中身に執心している。すべすべした木箱は中を小さく区切られており、そこにずらりと収まっているのは、色とりどりの浮き・毛鉤・擬似餌などもろもろの類いだ。
 どう見ても玄人向けの一式だった。恐らく少年自らが出入りの商人より調達したのだろう。いつの間に買ったのかと呆れながら、彼女はつい、少年の置かれている境遇に思いを馳せずにはおれない。
 本来なら、商人などと気安く直にやりとりをしていい方ではない。
 そもそも、自分たった一人を供に付けて、王都から60マイルも離れた港町で泥だらけになってみみずを掘っているべき方でもない。

 彼の身の上を説明するのはさほど難しくない。口外を許された情報はとても少ないが、いくつかの事実を伝えたあとは簡単な推測をしてもらえば事足りる。
 この少年の父親は本邦ササナにおいて、もっとも高い位置に座れる人間だということ。
 この少年には兄がいるが、母親が違うということ。
 兄の母親よりも、少年の母親のほうがずっと身分が高かったのだが、彼女は若くして『病死』したということ。

 6歳の彼に初めて対面したとき、騎士叙任を受けたばかりのレーゼもまだ16歳だった。
 まるで姉代わりだなと人は軽口を叩くが、そう単純なものではない、我が主君に無礼な表現をするなと彼女はいつも切り返す。
 レーゼは彼に心から忠誠を捧げている。良臣たる誓いを神にも立てており、命を賭してササナ国の王族を護ることは己の崇高な任務だと弁えている。
 だが、だからこそどこまでも『主君』という尊い他者だ。
 「殿下」という慣れていなかった呼称を言い損ねて、非礼を謝した彼女に、「呼びにくいならラトウィッジと名前で呼べ」と要求してきた幼い少年をレーゼは思い返す。
 親しみを示してもらえたと感謝するよりも前に、自覚に欠けた方だと感じ、どう固辞すべきか悩んだものだった。

「オクセンフォルダに、確か海は無かっただろう?」
 レーゼの故郷の名を出して少年が尋ねる。
「ございません。だからここも珍しゅうございましたよ……2ヶ月前までは」
「毎日通えば、さすがに新鮮味もなくなるか」
「まして美人は3日で飽きると申します。このうえない美人ではございませんか、初夏の海などというものは」
 少年は肩を震わせて笑った。私はおまえには飽きぬよと言う。
 おまえのその小憎らしさが良い、などと言われたこともあるが、彼女自身これは褒められたのかどうか捉えかねていた。
「慣れとは恐ろしいな。……私ももう慣れてしまったよ、ここで腐っていくことに」
 笑いの延長上にそんなことを洩らす。
 レーゼは返答しようと口を開き、しかし迷ったまま閉ざした。海風だけがやや乱れ、小鹿の背のような金茶色をした彼女の髪をさらさら撫でてゆく。
 少年はよく自嘲じみた自称をした。飼い殺しの鳥、しかも声が悪い――牙の折れた仔犬、しかも懐かず可愛げがない。だがいずれも冗談めかされ、達観した物言いだった。こちらに窘める気を与えさせないよう計算されている。まだ若い彼の年齢であれば本来、不当に冷遇されている自分の身の上にもっと怒りをぶつけてもいいはずだった。そうしないのは、彼に最低限の分別があるからなのだろう。
 『自分を追いやった兄や現王妃への鬱憤を晴らしたい』という当然の、しかし子供じみた欲求は、表に出せば最後あらゆる派閥に眼をつけられる。市井の少年たちの他愛ない兄弟喧嘩とはわけが違うのだ。各派閥は、自分たちの利権のために悲劇の少年を喧伝して担ぎあげるだろう。王家の不仲をだしに世論を煽り、いたずらに国を乱し、結果として民を食いものにするだろう。
 ここで茫洋と暮らす。 それだけのことで、何にも代えがたい国家の安寧が得られるのだ。少なくとも――夕餉に毒見を何人も付けたり、見晴らしの良い場所に立つ機会を神経質に減らしたりせずに済むのだ。

「……わたくしの父は」
 他人の言葉に頼る自分を情けなく思いつつもレーゼは切り出す。
「殿下について、畏れながらこう申しておりました。あの方は、今の状況でこそ本来の真価を問える方かもしれないと」
「ふむ、おまえの父は次期王位継承者に直属で召し抱えられた。その弟君は引っこんでいればよいというのは、なるほど説得力のある意見だな」
「そのように混ぜかえされますな」
 レーゼの父は、確かに彼の兄レジナルドに気に入られていた。正確には、その母親である現王妃に非常に気に入られていた。
 そのことは普段、この少年と接するうえでの彼女の後ろ暗さになっていたのだが、この時ばかりはレーゼは胸を張って答えた。
「王家に生まれたというだけでは得られぬ人間的価値を、殿下はお持ちだという意味です。日頃よりわたくしは、殿下の発想の豊かさには感銘を受けておりました。なにかしら御本でもお書きになってはいかがでしょう? 畏れながら申し上げますが、ただ王であれば、それは歴代の統治者のひとりにしか過ぎませぬ。しかし、後世に残るような物語をもし記せば――それを世に送り出した唯一の人間として、殿下の御名は語られます」
「待て、待て、乗せられんぞ、おまえの誘導には」
 陽に焼けてほんのり赤茶けてしまった黒髪をかきあげつつ少年が笑う。
「おまえはもう海の景色に飽きている。ここは無駄に陽当たりもいい。略装とはいえ、鎖帷子を付けてずっと立っているのは暑い。ただひとりの供だから、交代してくれる要員も差し入れを持ってきてくれる同僚もない。おまえとしては、私を書斎にこもらせてその扉の前で番をしているほうがよっぽど楽だものなあ?」
 レーゼは苦笑して頷いた。
「見抜かれましたか」
「敵に気取られるようでは、そも騎士として失格だな」
 糸をくるくるとたぐりながら、少年はふと遠い目つきをする。
「……おまえは昔からそうだった。私がどんな悪戯をしても、説教をして咎めたりはしなかった。だが代わりに、まだそんなことで喜ぶ歳なのかと実に冷酷に見下してくれたな。背伸びをしたい年頃にはずいぶん効いたものだが、結局はあれも誘導だったのだろう?」
 くだけた問いに、少し恐縮したふりで彼女が答える。
「お説教は他の方がしてくださるので、別方面からの接触を試みたまでです。失望を伝えることで逆に期待していたことをほのめかし、自発的に改めていただければと思いました。形だけの反省を求めても無駄だと思ったのです。この――」
「この糞餓鬼には、か?」
「わたくしも若かったもので、真剣にそう思ったことも何度かございました」
 涼しい顔で答える相手を愉快そうに見やり、少年はたぐり寄せた糸の仕掛けをはずしにかかった。例の箱からいくつか小物を取り出し、組み合わせを吟味して付け直す。
「だがおかげで、こちらも成長させてもらったわけだ。ふむ……この針には、この疑似餌のほうが良いと思うか?」
「わたくしに釣りの知識はございません」
「この河口の鱸には少し大きすぎるかなあ。だが今日は水温が高い、動きで誘えば食いつくかも知れん」
 再び竿が唸る。一瞬のほそい白が、再び蒼穹に映える。
 そしてまた同じ場所に広がる小さな波紋。
「……学ばせてもらったよ、騙すなら心地良く騙せとな。相手の望む状況を作ってやるのが基本中の基本だ」
 手首を微妙な角度であやつる。水中を漂う疑似餌はきっと、ふらふらと弱った小魚そっくりに泳いでいるだろう。本当に上達したものだとレーゼは思う。
「かと言って、媚びすぎても怪しまれる。ほどよく誘い込まないといけない」
 彼女はふと顔を上げた。かすかに感じた違和感は、先ほどから会話の主語が省かれているということだった。
「そうすることに自尊心が苦痛を感じるなら、最初から騙そうなどとは思わぬことだ」
「……お伺いしたいのですが」
 レーゼはそれとなく言葉を継いだ。話は釣りのほうに移行したとばかり思っていた。
「何の話をなさっておいでですか?」
 返答は反復であった。
「気取られるようでは、そも失格なのだ」

 しばしの沈黙ののち、快活な声が水面に弾ける。
「こんな話を知っているか? 長い戦争に疲れはてていた、ある小国の話だ」
 昔日を思い浮かべる老人のように、少年はもったいぶって語り出す。
「日ごと苦しくなる戦況のせいで、その国の人々は身も心も荒みはじめていた。軍部では疑心暗鬼から内部抗争が頻発し、民の生活も圧迫されはじめていた。ある夫婦に子供が生まれたが、その世話をする物資も十分にない。そこで母親は考えた。赤子のおしめを、売り物にもならなかった着古しの服で作ろうと。古着を切って作るだけだから、もちろん色柄に統一性はない。さまざまな布が、何枚も何枚も、頻繁に洗っては干されるようになった。……そして数ヵ月後、夫婦は軍部に連行されてほどなく拷問死した」
 釣り竿を持った手首が小刻みに動く。
 水中を漂う疑似餌はきっと、弱った小魚のように。
「なぜ殺されたか? 疑われたのだよ。何通りもの組み合わせで、遠くからも見えるように戸外に干された布は、敵軍に送っている何らかの暗号に違いないとな」

「……興味深いお話です」
 レーゼは首を動かさなかった。今はまだ、判断がつきかねた。

 高く宙を舞って、はるかな沖まで投げられる、色とりどりの浮き・疑似餌・もろもろの特徴的な形をした仕掛け。
 それらは小さいが、海には視界を遮るような障害物がない。遠眼鏡があれば、離れた場所からでもおおまかな種類を確認することは難しくない。
 細長い浮き、丸い浮き。きらきらと光を反射する疑似餌、しない疑似餌。
 根元から複数に分かれている仕掛け、いない仕掛け。
 それらの色と形の組み合わせは、いったい何通りになるだろう?

 田舎町で長く生活するうちに、少ない臣下たちはみな、高貴な身分であるはずの少年が自ら商人とやり取りすることにも慣れてしまった。
 だがそれは、本当は何を意味していたのだろう?

「……殿下」
 悪い冗談に、乗ってやろうと思った。
 だからおまえは生真面目すぎると人を笑いたいのだろうから、そうさせてやろうと思った。
「お考え直されませ」
 思いながらも、レーゼは素早く視線だけを巡らせる。人気のない水揚げ場に、沖をゆく小船の影に。
「言っておくが、私は兄が座るはずの椅子になどまったく興味はないぞ」
 飄々と言う横顔に、不穏さはかけらもない。
「ただ、一度でいいから行ってみたいところがあるのだ。なんでもそれは、人類が未だ到達せざる秘境らしいのだが『幸福な結婚』という名前だ。おまえとなら辿りつける気がする」
 突拍子もない相手の言に、彼女は虚を突かれて瞬きをする。
 数瞬のうちに思考を組み立てる。ああ、やはり、要するにすべてが冗談なのだ。刺激的な台詞で自分をからかっているだけなのだ。 無意識のうちに詰めていた息を吐きだす。
「……ならば単に、わたくしを拉致なさればよろしい。わざわざ国を乱す必要はございません」
「残念ながら、私は困ったところだけ保守的でね」
 芝居じみた嘆きの動作で頭を振り、両手を広げる。片腕は竿を持ったままなので不完全ではあったが。
「祝福されて結婚したいのだよ。正々堂々、王族らしくまっとうに」
「それは」
 レーゼは思わず言いつのった。冗談だと納得したはずなのに、口調はつい強くなった。
「お兄様のように、王族としてまっとうなご結婚をなさりたいという意味ですか。 お兄様のようになりたいがために、王族らしい結婚をなさりたいという意味ですか。……無礼を承知で申し上げます。殿下のそういったご欲求は、」
「そっくりおまえに返そう、レーゼ」
 視線を合わせぬまま彼女を遮った声は、低温の響きを持っていた。
「私がもし、兄のレジナルドのような男だったら私についてきたか。それともやはり、兄その人でないと意味はないか。言わせてもらおう、ならばなぜ、1人だけ楽になろうとしたのか」
「何を仰っているのか理解しかねます」
 間髪入れずに返答したつもりだった。だがその声は、自分の耳にも遠かった。
「レーゼ、私はもう知っている」
 少年の語気は、激しくなるというよりも憐情を帯びてきている。むしろ相手を説得する雰囲気に近い。
「不審がられないとでも思ったのか。父が誉れ高い騎士団長であり、自らも騎士であるおまえが、なぜ磯臭い田舎町に追いやられた私のお守り役など志願する?……理由があるのだ、おまえには。王宮に居られなかった理由が」

 押し込めていたはずの記憶が閃く。 鍵をかけていたはずの扉が開く。
 折れそうな三日月、蔦の葉が薫る中庭、自分よりも高い肩、ひそやかなあなたの声、愛しているよプレザンス。

「……そろそろご冗談がすぎましょう」
 彼女の言葉は無視された。
 レーゼ自身、自分の言葉にもはや意味があるとは思っていなかった。
「私には座りたい椅子なぞない。だが兄はそこから引きずりおろさねばならぬ。兄と私、お互いに王族ではなくただの男にならねばならぬ。そういう国を創らねばならぬ。兄は身分ゆえに、相愛だったにも関わらずおまえに去られた。私はこの身分ゆえに、おまえから同情しか与えられない。 立場ゆえに無条件に注がれる、忠誠も同情もぬぐい去りたいのだ。
公平な立場になったところで、改めておまえを競い合わねばならぬ」
 レーゼは、心の中で必死にあるものを参照している自分に気づく。そして己の混乱ぶりを図らずも客観的に思い知る。
 それは騎士になるとき覚えさせられた、何種類もの式典のための礼儀作法の教本だった。
 騎士になりたての頃は、それを暗記しなければならない苦労に苛立ったものだ。だが、手本を覚えてその通りやれば済むことの何と安心なことか!
 今まさに、国を滅ぼすと宣言した主君を前にして、どう振舞えばよいかなど載っているわけがない!

「……わたくしは行きます」
 深呼吸し、つとめて無表情に告げた。これ以上彼の言葉を聞いてはならない。
 真実はどうあれ、彼の言いようは平静を欠いている。どう対処すべきか判断するのは自分の仕事ではない。館に戻って護衛兵の交代を頼んだのち、信頼できる人間の指示を仰いだほうがいい。何よりも、いま彼が述べた想いがまことであるならば、自分はこれ以上彼の前にいないほうがいい。
 王都までもっとも早く辿りつく道筋と馬を交換する地点を脳裏の地図で検索しつつ、レーゼは勢いよく踵を返す。
「おまえはここから動くな」
 背中に投げられた声に振り向くと、小さく丸い物体が放ってよこされた。
 受け取ったそれは、彼女の家の紋章と、王家の始祖『フューリー』の訓辞が彫られた腕輪だった。王家から役職を拝命する者が一人ひとつ賜わる品物だ。
 これを与えられた者、つまり王族に直に仕えている者は彼女の家には2名しかいない。そのうちの1名はレーゼ自身で、同じものは今も左手首に嵌まっている。

 信じられぬものを見る視線を受けて、少年はひきつったように口の端を上げた。
「狂っていると思うか。女を落としたいがために、その当人の父親を質に取るのだ」
 彼は粛々と語り出す。自らを静かな炎で炙るように。
「これよりのち乱世となる。私は自分の我侭のために、無辜の民を巻き込み、国を焦土と為す。だが国民は納得してくれるのだ。 これは王家を滅ぼす戦、民に平等を与えるための戦。格差のない国を建てるための殺し合いだからな。兄と私が本当の意味で対等となるには、そうするしかない。おかしな話だ、私は民草のことなどどうでもよいのに、彼らは勝手に私をありがたがる。私は、自分の目的のためには何人死のうが構わないと思っているだけなのに」

 拳で殴り倒すのは、初めてだった。
 相手が主君という名の他者であれば、当然の行為だった。
 軽々と吹っ飛ばされて地面に頬を擦りつける相手を、レーゼは憤怒に猛る瞳で見据える。本当はさらに胸倉を掴んで詰め寄ってやりたかった。
「……余りと言えば余りの、」
 腕力なら、騎士として日々鍛えている自分のほうが勝る。 この状況を打開するうえでは特に意味のない要素だが、少なくとも喝を入れることはできる。
「王族として、あるまじき仰りよう。お眼を覚まされるがよい!」
 這わされた少年はじっと動かない。やがて、のろのろと身を起こした。
 焦れるほどゆっくり立ち上がり、着衣の砂を払う。怒りに沸いた脳の片隅で、彼女はふと気づく。こちらに向けられた少年の黒瞳、その奥底に渦巻く色に。
「王族として、か」
 男の声であった。
 その実、彼女はそんなものを今まで聞いたことはなかったが、それでもそう感じた。
「王族としての教育も、環境も、権利も、私には与えられなかった。
別に欲しかったものではない。
だが、そのくせ王族らしい高潔な人柄だけを、当然のように要求されるのは割に合わん」

 取り落とした釣り竿に歩みより、拾い上げる。
 いつもの垂直な構えではなく、両の手で真横に持つ。 つい昨晩まで寝床にも持ちこんで大事に磨いていたそれを、ばきりと膝の上で折る。
 まとめて海に投げ捨てる。それが合図であったのだろう。

 覆いを掛けて打ち捨てられた古い漁船が、桟橋のむこうに何艘か係留してあるのは知っていた。決して豊かな港ではないから、当然だと思っていた。 漁船にしては奇妙な形ではないかなどと疑ってもみなかった。故郷に海が無いことが災いしたかもしれなかった。
 一斉に覆いが剥ぎ取られた。
 甲板に蹲って待機する兵と、攻城用の火器を満載した船々が、号令とともに漕ぎ出してくるのをレーゼは呆然と見た。

 背後から、自分たちの乗ってきた馬のいななきが聞こえた。幾人かの足音もする。少年の手配した兵が逃げ道を封じたのだろう。
 全てのものが自分ひとりを置いて進行してゆく。それをただ見守ることしかできない。
「矛盾しているという自覚は、大いにあるが」
 彼は、自分のもとに集結してくる船団を見据え、彼女には背を向けて語る。
 ゆえに声からでしか、その表情を推測することはできない。
「おまえを苦しめたいわけではないのだ。 だから今から私の言うことは、信じなくていい」

 愛しているよプレザンス。
 兄とは似つかぬ口調の、その語尾の微かな震えが、彼が最後に見せた少年の顔だった。


Fin.



ある君主と臣下の物語です。現在のところ独立した短編ですが、続きを書こうと思えば書けるのかもしれません。
2007/06/10

>>オリジナル小説に戻る