「ね、ちょっと待って」 時乃は、笑いを堪えながら問いかけた。 いっそのこと、この人ときちんと話をしてみよう。 学校とは無作為に選ばれた若者たちの集まる場所だ。 多くの人間がひとつの場所に集まれば、確率からいってその中には必ず、何割かのイレギュラー層が含まれる。結果として、程度の差はあるがどの学校にも必ず、奇人・変人・有名人のたぐいが何人かは出没する。 この大学の名物人間、あるいは有名OBといったものなら、これまでも何度かキャンパスで見かけてきた。いま眼の前にいる男性は、年齢こそ自分と近いものの、公開講座を受けに来ただけの一般人だ。厳密にいえば学生ではない。 だが――何にしてもこれは、相当の逸材ではないだろうか。 「あなたが本当に、その…………『この世界を危機から救う、選ばれた勇者』だったとしてさ……」 口に出すと、改めて破壊力のある言葉だ。 唇の端が上がりそうになるのを引き戻し、痙攣する頬を抑えて、できるだけ神妙な顔をしてみせる。 「……倒すべき敵の魔王ってのは、一体どこにいるわけ?」 「それが解っていたら、もう倒している」 返答に躊躇はなかった。なるほど、理に適った言い訳だ。 「何処にいるのか、どんな名前か、どういう姿をしているか。それが解っていれば苦労はしない。できるだけ多様なケースに対応するよう準備しているが、俺としては、魔王が血肉をもった存在として産まれていることを祈るのみだ」 「血肉をもった存在って……それ以外で何があるの?」 「たとえば万が一、致死性の高い新しい病原菌としてこの世に発生し、猛威を振るわれたら手も足も出ない」 真顔で言いきる。見事なまでに強固な妄想だった。 再び緩んできた表情を隠すために、時乃は慌てて下を向いた。さりげなく横を向き、手持ちのペットボトルに口をつける。 唇を拭いながら、こっそり相手を盗み見る。身長はそこそこ、身体も特に大柄というわけではない。ただ、服の上から窺うことのできる身体は、確かに均整の取れたものだ。 勇者とやらがどんな商売かは知らないが、どうやら彼は、独りでも戦える軍人のようなものを想定しているらしい。それなら実際、映画俳優のように派手な筋肉をつけても鈍重になるだけだ。引き締まった身軽な体型が理想といえる。 そういえば……と彼女は思い出す。講義の始まる前、厚い本をダンベル代わりにして腕を鍛えているこの人の姿を見かけたことがあった。光景としては珍しくもないので、今まで気に留めなかったけれど。また、スポーツ系サークルの学生たちなどは、昼休みによく学校の周囲をジョギングしたりしている。昼休みの間カフェテリアに姿を見せないこの人も、もしかしたら走っているのだろうか。 加えて、自分と彼とが受講している公開講座。学生ではないが専門分野を学びたいという知的欲求の高い民間人のために、大学が無料公開しているものだ。 彼は、もちろん遅刻など一度もしなかった。座っていた席をいちいち覚えてはいないが、自分がどこに座ったときも彼の後頭部を見ていた気がする。つまり、いつも最前列にいたのだろう。正体すら掴めない敵を相手に、腕力だけをたよりに勝負を挑むのは心もとない。勇者ともなれば智勇ともに鍛えるべき、というわけだ。 思い起こせば整合してゆく事実に、時乃は溜息をついた。 笑える誇大妄想といえばそこまでだが、これは敬服に値するかもしれない。もうひとつ思い出したことがある――そういえば、講義仲間の飲み会に、彼は一回も出席していない。 理由を聞けば、いつもアルバイトだと答える。聴講生の中にはもちろん社会人もいるが、みな時間の融通がきく職業のはずだ。もしフリーターで食べているのだとしても、そうなると平日の昼に、優雅に講義を受けていること自体が考えづらい。 同じことを感じたらしいある学生が、「おまえ、来れない理由はほんとにバイトなわけ?」と軽口を叩いたことがある。すると彼は真面目な顔で、「今のうちに貯金しなければならない」と重々しく答えた。いかにも事情ありげなその台詞に、誰も深く追及することができなかった。 ……いもしない敵のために、こうして自称・勇者さまは、青春を棒に振ってまで頑張っている。 「で?」 どうやらこの男は、人を馬鹿にしているらしい。 最初は、口説き文句としての比喩で言っているのかと思った。でもそうでないのなら、これはむしろ屈辱的だ。他人の眼からは、私がそんなイメージに見えているんだろうか。 可南子は、グラスに刺さったストローをいらいらと回しながら言った。 「あんたの言うとおり、私が本当に、『世界を滅亡させる魔王』だったとして……いったい何をすればいいのかしら?」 眼鏡の男は長い指を上げ、おもむろにフレームの位置を直した。その奥にある瞳は穏やかに笑っているが、どことなく、底知れぬ一線があるようにも見える。 「魔王は、何かをしろと人に命令されるものではないでしょう」 道理だった。でもそれなら、何でもやりたいことができるだけの力も付随してほしかったわね、と彼女は内心で呟く。 少なくとも、こんなところでパラノイア男とお茶をすることが私の望みなんかじゃない。 「魔王っていうけど、それはどういう存在なの」 「僕には解りません。魔王はあなたなのですから」 勝手な妄想を押しつけてくるくせに、肝心の設定は人任せらしい。 可南子は呆れ果てて、付き合ってられるかとばかり椅子を蹴って乱暴に立ちあがった。どいつもこいつも、私のことを馬鹿にしている。 「ただ、現状、魔王がすべきことは……」 男は何事もなかったように語り続けたが、当然聞くつもりはなかった。ただ、自分のぶんのお茶代を叩きつけてやるためにバッグから財布を出さねばならず、その隙に耳に入ってしまっただけだ。 「……朝起きて、食事をして、学校に行って帰ってきて入浴して寝る。それだけです」 シンプルな回答に、思わず彼女は手を止め、相手の顔を見た。 熱のない男の視線が、正面から可南子を捉えた。 「それらすべてをしながら、世界を呪っていればいい」 ……なるほど、私は魔王だ。 財布を出そうと開けたトートバッグの中に、視線を落とす。 私があのひとに差し出した、でも受け取ってもらえなかったベーグルサンドが入っている。お昼休みはいつも、カフェテリアにも寄りつかず、さっさとどこかに行ってしまうあのひと。 たまには一緒に食事しませんか、同じ講座なのにほとんどお話してませんよね。私、実はお弁当作りすぎたみたいで。勇気を出して誘ったのに、そんな時間はないとすげなく断られた。それだけならいい。そういうことをしたがらない人なら、それだけのことだから、私が受け入れればいい。 それなのに、あの女の子と話す時間ならあるって、どういうこと? 視界がぼやけそうになり、あわてて顔を上げる。 可南子の前に腰掛けている、自称・『魔王の部下』は、その様子を見て柔らかく微笑んだ。 2011/10/31 |