「その後は?」
 誰もが予想しなかった言葉が、誰もが予想しなかった方向から発せられた。

 13対の瞳が、声の主を探して動く。
 ほとんどすべての視線が驚きをもって――うち一対は半ば動物的な反応であり、うち一対は単に周囲の模倣であったりしたが――対象を捉えた。

 彼はいつも通り、自分の定位置である食堂の隅にひっそり立っていた。壁に立てかけられた黒鋼の刃のように研ぎ澄まされた静謐さで。
 己に向けられたさまざまの顔を、受け止めはせず受け流してシャドウは繰り返す。
「……その後は?」

 そうだ。
 ケフカを斃す、その後は?



 数日前から、ファルコン号の全乗員はあるひとつの結論に向けて動いていた。
 瓦礫の塔の、最深部を除くほとんどの部分の見取り図が完成した。あるときは意気揚々と、あるときは這う這うの体で、少しづつ情報を持ち帰った結果の産物だ。それをもとに、効率の良さといくらかの人間関係的条件も加味して3分割のパーティー編成が行われた。
 各自の武器と具足がいったん回収され、傷みや故障の有無を点検されたのちバランスを考えて再分配された。自分にしか扱えぬ得物を帯びているものは、念入りに手入れを行った。腰を据えての予定になるため、物資の欠乏が懸念され、備蓄食料や消耗品が大量に買いこまれた。商店の箱や大樽が倉庫にうず高く積まれ、はみ出して廊下にも積まれ、さらに所帯じみてきた愛艇の中を見回しつつ、空の男が溜息をついた。
 メンバー全員が自分の最終的な予定を提出し、それを効率よく消化するために一覧表が貼りだされた。ドマの侍は故郷に眠る妻子の墓参りを済ませ、フィガロ王は決済した書類の束と印璽を捺した封書とを使者に持たせた。魔導の少女はモブリズの我が子たちに食べきれないほどの菓子を焼き、モーグリはナルシェの恋人の名を呟いた。
 野生児と雪男が大気の匂いを嗅いで、向こう一週間の快晴を予報した。やり残したことはもはやない。世界が引き裂かれてのち、数多の悲喜交々を経て集った彼らはただひとつの目的のために動いていた。その日のために技を磨き、身を鍛え、術を深めたのだ。
 すべての事象がいよいよ、求める段階に達しようとしていた。

 そして今夜、彼らは恐らく最後になるであろう定例会議の卓についた。
 各々の体調、背景事情、装備や常備品、戦略上の合意形成に至るまで過不足なし。
「では、全員に通達」
 今回の議長役を務めていたロックが改まった声を出す。
「最終決戦は――2日後」

 ……会議はそこで終わるはずだった。いつものように解散し、来たるべき日への緊張感を保ったまま、各自の時間を過ごすはずだった。
 しかし今は皆、直後に投げられたシャドウのひとことに虚を突かれて子供のように目を丸くしている。発言者が彼であることへの驚きも混じっていたが。
 言われてみれば、そうなのだ。
 ケフカを斃す、その目的に向かってひた走るばかりで気が付かなかった。ひとつの目的のために何もかも投じ、そして成し遂げてしまったら? 大願をいざ成就してしまったら?
 『その後は』…………どうすればいい?

 誰かが、口を開こうとした。
 しかしそれよりも一瞬早く、一同における最年長者が場の空気を引き受ける。
「うむ」
 ストラゴス翁が口髭を撫でつけながら首肯した。
「今のシャドウの議題はとても良いものだゾイ。しかし、だからこそすぐに結論を出してしまうものではないとも言える。……どうかな? 今夜一晩、それぞれが持ち帰ってじっくり考えてみるというのは……」



                 *          *          *



 自分の最強武装。すなわち、スケッチブックを小脇に抱え、腰には絵筆のホルダーや小さな雑嚢を付けてリルムは部屋を出た。
 定例会議はいつも夕食のあとに行われる。あれから小一時間ほど経ったから、時刻としては21時ごろだ。ファルコン号の廊下は薄明るく、等間隔に取り付けられた照明がちらちらと瞬いて瞳をやわらかく刺す。
 曇り硝子に包まれたその光源は炎ではなく、電気だ。電気による照明自体は、リルム個人はアウザー氏の邸宅で小さいものなら見かけたことがある。帝国では、少なくとも皇城においては実用化されていたらしい。しかし一個人が、乗り物の中に、しかもメインの設備として電灯装置を配線しているのは珍しかった。ダリルという人は貴族趣味――いや、新しもの好きだったのだろうか。
 ファルコン号の消灯は午前0時と決められている。その時刻には、非常灯を残しすべての照明が落とされる。更に遅くまで起きていたいものは、燃料費は自己負担で各自ランプを点けなければならない。それまでにリルムにはやっておきたいことがあった。
「さすが、早いね」
 船の中央に位置する広間兼食堂に出たとき、そう声を掛けられた。
 顔を上げれば2階の回廊から、ややくすみのある金髪に縁どられた美丈夫の顔がこちらを見下ろしている。
「何が早いって?」
「さっきの宿題の答えがもう見つかったから、部屋から出てきたんじゃないの? 手に職のある人間はやっぱり違うね」
「……それはあんたも同じだろ、王様」
 肩をすくめて無言の返答をしたあと、ちょっと待ってとエドガーは会話を中断した。手摺から顔が引っこんだかと思うと、ぐるりと回廊を巡る足音が聞こえ、やがて階段をわざわざ降りてきて彼はリルムと同じ床の上に立つ。そういえばこの人は、緊急の場合はさておき女性と会話するときに自分が高い位置にあるのを良しとしない。まったくご丁寧なことだ。
 降りてきたエドガーの手には、淡い色のマランダ茶の入ったタンブラーがある。それを見たリルムは、あたしにも何か飲みものちょうだいと言ってソファに掛けた。本当は用事が控えているのだが、一息つくくらいの時間はある。
「……『その後は』……だってさ。シャドウのおっさんも憎いこと聞くよね」
 グラスに注がれたシトラスエードの甘さを舌の上で転がしつつ、リルムは言った。
「色男みたいな立場の人間はさ、言われなくたって後先のこと考えるのが仕事だよね。ドマ復興を目的にしてるござるのおっちゃんは、あいつをやっつけるのはむしろ目的までの過程でしかないだろうし。……ただ」
「……寄る辺なき者たちも多いからねえ。我が同胞には」
 気遣いの含まれたエドガーの口調を受けて、リルムも遠慮がちに頷いた。
 この場合、寄る辺がないというのは精神的な意味も含まれる。まず例として挙げられるのはセリスだ。帝国を離反した彼女にとって、ケフカ打倒は非常に大きな意味を持つ。あれを討つだけの動機がある、というだけなら他の仲間たちも同じだが、彼女にとってケフカを斃すことは恐らく魂の解放をも意味していた。
 かつて帝国で将軍として、今は世界を救う旅団の一員としてセリスは戦ってきた。内面の変化を経て人間らしさを見せるようにはなったが、彼女の取ってきた行動自体は今も昔も変わらない――つまり、剣と同志に己を託して信ずる道のために突き進むこと。しかしそれが終わり、剣を振るうことから解放されてしまったらある意味セリスは何者でもなくなる。
 討つべき敵も、暮らしを立てる生業も、帰るべき故郷もない、ひとりの女ができあがるのだ。
「……いや、他人のことは言えないな。正直なところ俺も、先刻のシャドウのひとことには目を覚まされた」
 リルムは斜め前に座っている男へと視線を向けた。その声に鈍色の重さを感じて。
「ケフカさえ斃せば、ケフカさえ消えれば、ケフカさえ、ケフカさえ……。あらゆることをあいつのせいにして、俺はその後について考えるのを怠っていたかも知れない」
「え、どういう意味?」
 思わず聞き返す。テーブルについた指がグラスに触れ、マドラーがからんと音を立てる。
「だって本当に全部あのうひょひょ野郎が悪いんじゃんか。それに色男は、ちゃんとこれからの予定も考えて王様業やってるでしょ」
「……どう説明すればいいかな」
 かすかな自嘲を滲ませて、青年王は口の端に苦笑を浮かべた。
「確かに、ケフカ亡きあとの衰弱した世界をどう復調させるかはあれこれ考えている。それはフィガロの存続にも直結するしね。ただ、自分の身に起きた嬉しくない出来事を、すべてケフカのせいだと考えるのはどうだろう? 出来事の表層のみに終始してしまうのは?……例えばの話、俺とマッシュの父親がなぜ亡くなったかは知っているよね」
 リルムは頷いた。対外的には病死とされているが、実際には遺体や身の回り品から未詳の薬物が検出されたと聞く。帝国による謀殺という証拠はない。だが当時、毒を盛るだけの手筈を整えられたのもそれで利を得るのも帝国以外なかったはずだと……。
「俺の父を殺したのが、帝国、ひいてはケフカだといったん断言してみよう。しかし暗殺というものは、内通者あるいは協力者なしでは決して不可能だ。実行犯と思われた者は自害してしまったが、なんの後ろ盾もないただの下働きの少年だった。では彼を操っていたのは誰か? 帝国の息のかかった者が忍びこみ、時間をかけて内情把握に至ったのか? あるいはもともとフィガロ人であった者が懐柔されたのか? どちらかは解らない。解らなかったことを恥じるべきなんだ。帝国やケフカを憎む前にね。王が口にする寝酒の杯を迂闊にも見張っていなかったことを、付け入られる隙があったことを、恥じなければならない」
「……で……でも、なんかそれ、おかしいよ」
 冷徹な論にリルムは言いよどむ。
「だって、身内を殺されちゃったほうが悪いなんておかしいよ」
「『騙されるほうが悪い』という論法は俺も好まないよ。というより、いやしくも国を治めるものがその言い分を通させてはいけない。騙すほうが悪いに決まってる。ただ、こと為政者においては、『自分を騙そうとする相手を見抜けなかった罪』は存在するんだ」
 強くはない口調の中に揺るがぬ芯を通して、エドガーは結論づける。
「暗殺を未然に防ぐのが、王子である俺やマッシュの義務だった。王を守るべき臣下たちの義務だった。ひいてはそうさせるのが、国王である父の義務だった。……為政者に隙があるというのは、それだけで罪悪なんだ」
 口を開きたい衝動をこらえて、リルムは黙った。
 反論したい気持ちはあったし、もしそれを口にしたらエドガーは否定せず優しく受け取ってくれたかも知れない。でも自分の考えを甘い方向に改めはしないだろう。それが痛いほど理解できた。
「ケフカの前にも困難はあり、ケフカの後にも辛苦はある。この先いくらでも世界に危機は訪れるんだ。それは解っていたつもりだった。だから今後の復興について考えた。人口減少下における産業の立て直し、断絶された流通の回復……けれど俺は一方で自省を怠っていた。あいつの残した爪痕に覆い隠された、自分や内部の反省点を無視していたんだ。やはり目先の敵に囚われていたんだな……」
 やや沈黙があり、少女は瞳を伏せて親指の爪を噛んだ。
 何か言いたいのだが、言葉が見つからない。エドガーの説明は解りやすく、年若い彼女にも納得できた。そしてその納得ゆえに相手の心の重さをやわらげるための反証をうまく思いつけない。
 では、むしろ自分らしくあろう。リルムは交わされた会話の中から毒舌の種を探し出し、どうにか軽口のようなものを叩いてみせる。
「人間って、30手前になってもやっぱり目先のことに囚われる生き物なんだね」
「……不徳の致す処だ」
「……いや、そうじゃなくて」
 曖昧な毒舌のせいで曖昧な批判のようになってしまった。慌てて手を振る。
「あたしも覚悟ができた、って意味だよ。人間、年齢さえ重ねたら大丈夫なんてことはないんだってね。それならそれで覚悟ができるじゃん。一生油断せずに自分の心に気をつけてあげればいいんだ、ってさ」
 エドガーの碧眼が少し細められて、リルムを見た。それは笑みと呼ぶには弱々しすぎたが、少なくともいくばくかの浮上が感じられて少女は安堵した。
「あたしもさ……言われてみたらあんまし、その後のことを考えてなかったかも」
 グラスに刺さったマドラーを回しつつ、小さな絵師は切り出す。
「これからも絵を描き続ける、それは決まってるんだ。でも、あたしにとっての『描く』って行為をそこまで真剣に考えてなかった。……あたし大抵、油彩や水彩ばっかり描いてるでしょ? 子供のころはクレヨンも使ったけど」
「クレヨンを使っていたころから『スケッチ』の能力はあったのかい?」
「クレヨンで描かれた質感ののっぺりした粘土人形みたいな自分の顔が動き出すのは、ものすごく不気味だったってじじいが言ってたよ」
 さらりと返された答えに、情景を想像して、エドガーは思わず天を仰いだ。
「けど本当は、世の中にはいろんな表現技法があるよね。アウザーさんに画集を貸してもらったんだ。パステル画や版画、フレスコ画……ドマには『墨』っていう黒インクだけを使って描く絵もあるらしいよ。そのときは、ページをめくってわあ素敵、で済んじゃったけど、もしかしたらその中のどれかが油彩や水彩よりもっとあたしに向いてるかも知れない」
 無意識にスケッチブックの表紙を撫でながら、リルムは続ける。
「なんでもかんでも手を出しちゃうのは八方美人かも知れないけどさ。でも少なくとも、興味を持った技法は一回くらい試してみたいし、そうでなくても現物を見てみたいな。なにもかも挑戦、なにもかも精進だよね」
 エドガーは頷きながら聞いていた。考えてみれば、自分たちのようにある種の結論が既に出ている人間こそ、惰性を防ぐために常に『その後』を意識しなければならないのだろう。戦いが終わったらセリスは、確かに何者でもなくなる。だがそれは赤子として生まれ変わるようなものだ。彼女はこれから、何にだってなれるのだ。
「……そろそろ飲み物のお代わりをお持ちしましょうか? 絵師殿」
「ありがと、でもいいや。ちょっと今夜じゅうに会っておきたい人がいるから」
 ソファから立ち上がりつつのひとことに、エドガーは耳を奪われた。うまい誘導を構築する前に、反射的に質問が口から滑り出てしまう。
「シャドウか?」
 純粋な疑問を浮かべて向けられた少女の金褐色の瞳に、エドガーはしまったと思う。
「なんであの人?」
「いや、ほら、今回の議題を提出した張本人だし」
「ああ」
 あっさり納得した様子のリルムに、砂漠の王は心中で胸を撫で下ろす。確証があるわけではない、下手に刺激してくれるなとストラゴスには言い含められているのだ。
「んー……ま、誰かは秘密ってことにしとくよ」
 じゃあね、と手を振って小さな背中は広間を出てゆく。ひとり残されたエドガーは、去ってゆく足音を聞きながら、我知らず握りしめていた指に気づいて緩めて解いた。
 今宵今晩、彼女が語りたい相手が誰であるのか。
 それが自分ではなかったことに、どうやら何がしかの感情を覚えているらしい己の胸中を、他人事のように見下ろしながら――エドガーは頭を掻いた。



                 *          *          *



 ファルコン号は今夜、ツェン郊外の平野部に停泊している。
 あまり街に近い場所に停めると、ケフカの裁きに怯える住民たちに要らぬ威圧感を与えてしまう。ファルコンが日常的に空を翔けていたのは昔の話で、カジノ船として曲がりなりにも認知されていたブラックジャックとはわけが違うのだ。それゆえ人里からは常に距離をとっていたが、原野での野宿となると妖物の襲撃を受けることもまれにあった。
 軽金属装甲のなされたこの船は、野に棲む獣ごときにはそう簡単に傷つけられない。しかし中には気の荒い個体もいるし、繁殖期ともなればそれが顕著だ。なので少なくとも、夜間の停泊時に外に出るときは必ず火を焚くことが義務付けられていた。
 紅と黄の中間色にゆらめく炎の色を、リルムは廊下の窓から艇外に見た。
 昇降口に向かい、夜の闇へと続くステップをとんとん降りる。いちばん最後の段から地上へと足を下ろした瞬間、ずずん、と振動が響いた。
 一瞬、あたしはそんなに重かったっけと錯覚したのがばかばかしい。少女に失礼な勘違いをさせた犯人はあたりを見回せばすぐ判明した。周囲には焚火の薄明しかないが、白い巨体は夜目にも目立つ。わあわあと興奮してはしゃぐ声もまとわりついている。
 原始的な鬼ごっことでも呼ぶべきだろうか。草の上をはしっこく逃げ回る野生児を捕まえようと、雪男はずしんずしん手足を振り回して大忙しだ。もちろんお互い遊びのつもりであって本気ではない。本気の遊び、ではあるかも知れないが。
 この2人だけで夜の戸外に出ることが、治安上許されるとは思えなかった。火の番をしているのは誰だろうとリルムは光源を振り向く。椅子代わりの丸太に掛けて小枝で炎をつついていたのは、フィガロの王弟、気のいい大熊とも形容される拳闘士だった。
「よう」
 リルムの姿に気づくと、マッシュは巨躯をできるだけ詰めて彼女の場所を作ってくれた。
 遠慮なくリルムは隣に腰掛ける。火の上には固定台と、真っ黒に煤けた木箱が据えられている。ごみを燃すついでに日持ちする燻製肉を作っているようだ。
「さすが、早いな!」
 そう声を掛けられて、リルムは吹き出しそうになった。主語は省略されていたが、何のことを言っているかは解る。つい先ほど、よく似ている顔とほぼ同じ会話を交わしたからだ。
「何が早いって?」
 にやにやしながら、わざと同じ聞き返し方をする。
「シャドウに言われたことの答えがもう出たんだろ? ま、リルムなら考えるまでもないよな」
「……それはあんたも同じだろ、筋肉達磨」
 末尾の固有名詞だけを変えて、リルムはやはり同じ台詞を返す。この弟が人生の指標としているものは誰から見ても明白だ。
「日ごろから言ってるもんね。オレは兄貴を支えるんだ、そのために強くなったんだって……。あんたさあ、道化野郎を倒してフィガロに帰ったら具体的にはどうするの? 見込みのある兵士を弟子にとって鍛えたりとかすんの?」
 少女の何気ない問いに返されたものは、丸く開かれた碧眼と予想外の答えだ。
「オレ、フィガロには帰らないけど?」
「え?」
「ていうか、帰るんならなんで出てきたのさ、オレ」
 屈託なく笑う。相手の思惑が理解できずリルムは問い詰める。
「え、だって久しぶりに兄弟が再会したんでしょ? 昔、王位継承のことでいろいろあったから国を出てきたんでしょ? それが解決してるんだからもう帰ればいいじゃん」
 言いながらもリルムは、彼らの現況に含まれる矛盾に気づいた。そう、もし揉め事を避けるためだけにマッシュが出奔したのなら、もう少し早くフィガロに戻っているはずだ。
 エドガーが即位して10年余りが経つという。リルムは政治には明るくない。だが彼ほど如才ない王の治世が続けば、結果として穏便に済んだ後嗣争いのほとぼりくらいは既に冷めているのではないか? 肝心の双子同士が不仲なわけでもないのだし。
 なのに今まで帰らなかった、そして今後も帰らない、というのは?
「オレは自由になるために国を出たんだよ、リルム」
 拳だこのある節くれだった手が、枝を使って炭化した木片を突き崩す。
「今のオレにもちろん王位継承権はないし、実をいうとフィガロ城下の永住権もないんだ。確認はしてないけど兄貴がそう定めてくれたはずだよ。出てくるときに2人で決めたからね。ま、フィガロ城下だけって話で、フィガロ領内には普通に住めるけど」
「永住権も……」
「オレはかつてフィガロ城に住んでいたものとして、王宮には遊びに行けるけど、そこに住むことはできない」
「なんでよ。なんでそんなことになってるの」
「オレみたいな立場の人間が自由になるには、それくらい誇示的な手続きをしないと駄目だったんだよね。なまじ繋がりが残ってると面倒なんだ。兄貴の政治に不満のある奴がやってきて、無理やり担ぎ出そうとするかも知れない。そういうのからも縁を切りたかったからさ」
「それにしても、兄弟が二度と一緒に住めないなんて……」
「うーん、他にも理由はあるんだよ、いろいろと」
 言いつのる少女に浅い苦笑を向け、マッシュは言葉を探す表情でしばらく沈黙した。
 じっと中空を見つめる瞳を見てリルムはふと思う。エドガーにそっくりな碧眼だけど、よく見れば少しだけ違う。例えるなら弟のほうは夏の天蓋の透明感。兄のほうは湖沼の深みのような豊かな色だ。
「リルムは兄貴と仲いいからなあ……いや、だからこそ言ったほうがいいのかな」
 マッシュは手にあった小枝をぱきりと折ると、まとめて火の中に投げ込んだ。
「今から言うこと、兄貴には言わないでね。兄貴もじゅうぶん承知してる内容ではあるけど、オレがこれを考えてるって状態を兄貴はきっと好きじゃないからさ」
 小難しい前提を置いてから、砂漠の国の王弟は語りだす。
「なぜオレが祖国に帰らないか。それは、自由を選んだオレが兄貴の役に立つためには、祖国からはっきり切り離されてる必要があるからなんだ」
「フィガロの役に立つために、あえてフィガロに帰らないってこと?」
「そう。オレってさ、フィガロじゃないけどフィガロなわけ。あの国の王族なのにあの国にいない人。もっと言っちゃえば、国外勢力としてのフィガロ。フィガロから自由でありながらフィガロのために動ける存在」
 大きな手が地面からいくつかの小石を拾いあげた。その中の3つを足元に並べなおし、それぞれを指差しながらマッシュは続ける。
「たとえばフィガロが、Aという国と仲良くなりたいとするだろ? でもフィガロがいま付き合ってるのはBという国だとする。そしてAとBはすごく仲が悪いときてる。フィガロはAと仲良くなりたい。けれどBとも喧嘩したくない。さて、そこでオレの出番だ」
 Aと呼ばれた石のそばに、フィガロと呼ばれた石に似ているがあくまでも別の石が、かちんと寄せて置かれた。
「フィガロじゃないけどフィガロのオレが、Aのとこに行って『フィガロはあなたと仲良くしたいです』と言う。ほんとに仲良くできるかどうかは置いといて、少なくともそういう気持ちがありますよと伝える。これでフィガロとAにはパイプができる。Bはもちろん怒るだろう。Aなんかと仲良くするなとフィガロに怒鳴りこんでくるだろう。でもそのとき、兄貴はこう言うんだ。『何のことですか? うちの人間は誰も、Aと仲良くしたいなんて言ってませんよ』……こうやってフィガロに有利な状況を作っていくんだ」
「……ねえ、これってもしかして」
「ご明察」
 にっと笑い、マッシュは手の中の残りの石をぐっと握りこんだ。くぐもった音がして、開かれた指からは粉々になった欠片がぱらぱら落ちる。あいかわらず冗談みたいな握力だ。
「今のたとえ話はそのまんま、ちょっと前のフィガロ・ガストラ帝国・リターナーの関係にあてはまるね。でも実際には兄貴、リターナーと繋がりを持つのも何もかも全部ひとりでやっちゃった。そういう段取りこそオレにやらせればいいのに。表面上は帝国と同盟を結んだままだったんだから、危ない橋を渡るよ、まったく」
 汚れた手を払ってマッシュは立ち上がった。燻製箱の蓋をずらし、内部を覗いて具合を確かめながら続ける。
「もっとも兄貴は、オレをほんとの意味で自由にしようとしてくれてたから……そうしようと意地を張ってくれてたから……国の面倒に巻きこみたくなかったんだろうね。でも」
「なんだか、悔しいよね」
 語尾を引き受けてリルムは呟いた。
「全部ひとりで抱えこまれちゃうのは悔しいよね。信頼されてないような気がしてさ。たったひとりの弟なんだから、もっと頼ってくれていいのにね……」
 筋骨の隆起した分厚い肩が、ぴくりと動いた。
 小山のような上体が勢いよくこちらに振り返り、驚いたリルムは目を見張る。自分を見つめる瞳の奥に先程とは違う色が漂っているのに気づき、絵師の少女は眉を寄せた。
「……うーーん……」
 フィガロの王弟は何事か迷っている。何事か口篭もっている。遠くの薄闇から、きゃあきゃあと弾ける声が聞こえた。雪男がやっと逃げまわる野生児を捕まえたらしい。
「よし、今夜は大サービスだ。全部言っちゃおう」
 丸太に腰掛けはせず、草の上にどっかと足を組んで座りこみ、拳闘士は言った。
 その姿勢が、彼の格闘流派において人と対話するときの正式な座法であることまではリルムには解らない。
「兄貴がオレを頼ってくれなくて悔しかった。うん、悔しかったよ。力になりたかったのにさ。兄貴の苦労をこっちにも分けてくれよと思ったしさ。でも……悔しいって気持ちの成分はそれだけじゃない」
「と言うと?」
「もっと単純な意味での『悔しい』も含まれてたんだ。オレ向きの仕事だったはずなのに、なんで兄貴がとっちゃうんだろう。確かにオレは自由をもらったけど、2人で国を強くしようって誓ったはずなのに、なんでオレに働かせてくれないんだろう。そんなにも兄貴はオレを勝たせたくないのかな。そんなにもオレより上でいたいのかな……ってね」
 絶句している少女を見やり、王弟はむしろ照れくさそうに笑った。
「意外、って顔してるね。そうじゃないかとは思ったけど」
 マッシュの口調は落ち着いていた。夏の天蓋のような碧眼は、荒野の星空を見透かしつつ過去の記憶をさらう。
「……ばあやあたりに聞いたかも知れないけど、オレ、小さいころは背も低くてさ。おどおどしたおとなしい子供だったわけ。兄貴は昔からはきはきした利発な子で、大人たちの前でもほとんど物怖じしなかった。同じ年齢、同じ性別、そっくりの二人なのに、まるで違ってた」
 そういう状況でさ、相手になんにも思わないでいられるってことは、やっぱないでしょ。
 湿度を感じさせない、からりとした言い回しだった。だがそこに含まれる、余人には見えない兄弟の歴史にリルムは口元を引き結んだ。
「オレが心身を鍛えるためにダンカン師匠に師事するようになったのは、周囲の勧めもあったけど、自分自身の意思でもあった。なにかひとつ兄貴に勝ちたかったんだね。武術を習い始めて2年目くらいだったかな。オレ、腕相撲で初めて兄貴に勝ったんだ。あのときは嬉しかったなあ、自分の成長が実感できて」
 ずずん、と夜の草原に再び地響きが聞こえた。野生に生きる1人と1頭がまた新しい遊戯を始めたらしい。
「その次の週さ。王宮付きの家庭教師がオレたちに定期試験を出した。一癖も二癖もある問題ばかり出す厳しいじいさんで、いっつも手こずらされてた。だけど結果を聞いてびっくりさ。兄貴が初めて満点を取ったんだ。前日には徹夜までしたらしい。兄貴は誇らしげだった。その横顔は、ちょっと前までなら見ているオレも一緒に誇らしくなるものだった。でもその日は違った。兄貴は腕相撲でオレに負けたからこっちを頑張ったんだ。それが解って、なんだか胃のあたりが冷たくなった。……そのころかな、住み分けが始まったのは」
 兄は弟の不得意分野を、弟は兄の不得意分野を。兄の習わぬ格闘技術に弟は磨きをかけ、弟の嗜まぬ工学の世界に兄はのめりこむ。
 兄弟仲が悪いわけではなかった。困難には手を差し伸べ、悩むことがあれば相談した。足りないところを補い合う意味では彼らは素晴らしかった。だが同時にフィガロの双子は――お互いの役割が衝突しないよう心配ることで――逆説的に誰よりも競いあい、反目しあい、張りあっていたのだ。
「……出奔の夜、さ」
 マッシュは語る。彼らにとっての運命の分岐点について。
「オレは兄貴に一緒に行こうと言った。ご存じのとおり、兄貴は首を振ってコインで決めようと言った。オレは思った。そうか、そうだよな。兄貴は立派な人間だから。立派な人間でいたい人だから……。城の裏手から抜け出して、星を頼りに砂漠を歩きながら、オレは一度も振り返らなかった。何時間もかけてコルツの麓にたどり着いて、そこで初めて振り返った。当然だけどフィガロ城はもう見えなくて……正直、オレはほっとした。これで継承問題が収まるからというのもあったけど、もうひとつは兄貴ときちんとお別れできたからなんだ。今日からオレはオレ、兄貴は兄貴だって……。兄貴もきっと、オレの姿が砂漠の向こうに見えなくなったとき、ほっとしたと思う」
 リルムは言葉なく、ひそかに細く息を吐いた。
 きょうだいすらいない彼女にとって、双子同士の確執は少々遠い世界の話だ。しかし彼女とて、誰かへの嫉妬や二律背反の感情にまったく覚えがないわけではなかった。仲良しの子が大人たちに褒められているの見て心底憎らしくなり、そんな自分をこそ嫌いになったこと。自らの幼さに口惜しさを感じていたところにストラゴスの小言が重なって、思わず声を荒げたこと……好きな相手だからこそ許せない、折りあえない様々のこと。
 同じ顔をした、同じ歳の、同じ立場の子が相手だったら、その苦痛はもうひとまわり強いかも知れない。
 フィガロの兄弟は自我ゆえに競いあい、認めあうゆえに葛藤し、受け入れるために別れを決断した。だからこそ現在の強い絆があるのだ。血が繋がっている事実に甘えなかったことに、彼らの勝因があった。関係性の上にあぐらをかいていては心はどんどん離れていく。関係を維持していくためには努力が必要で、その中にはきっと惰性を捨ててお互いのために距離を取ることも含まれる。
 誰かと正しく向き合うためには、その誰かから自由でいなければならない。
「言っとくけど、兄貴の力になりたいと願う気持ちは嘘じゃないよ。ひとりで国を背負って立つ兄貴はきっと大変だったろうから。でもね、自分の仕事を自分の力でやりぬくのはすごく気持ちよくてすごく価値のあることだっていうのをオレは知ってる。兄貴はその素晴らしい苦労を、誰にも譲る気はないだろうってこともね」
「放っておくと、無理してひとりで抱えこんじゃうとしても?」
「兄貴はオレに自由を贈ってくれた。でもそれは、ひとりの男が自分で考えて決めたことだ。やりたくてやったことなんだ。あの人が無理していたとしても、だったらオレはその無理を尊重しなきゃならない」
 だから王弟は自分を頼れなどとは言わない。一国の王の誇りを汚さない。そのかわり、『マッシュ』は勝手にフィガロのために強くなる。彼は自由な人間だから、一国の王になんと思われても知ったことではないから。彼は自由に道を歩み、自由な意思で祖国を支える。兄のために、そしてそれ以上に、決して兄にひけはとらない自分自身に誇りを持つために。
「……そういえばさあ……」
 リルムは顔を上げ、呆れにも似た笑みを浮かべる。
「思い出したよ。ティナから聞いたんだった、あんたたち兄弟のこと」
「え、何のこと?」
「まだティナと知り合ったばかりのころ、なんとかっていうリターナーの指導者と一緒に大きな河を下ったときの話」
「バナン様とレテ河を下ったときか?」
 リルムは思い出す。ティナは確かこう前置きしたはずだ。当時の私はまだ感情の機微に慣れておらず、覚束ない部分もあったけれど。
「……自分たちは双子の兄弟で、10年ぶりに再会したばかり。そう説明を受けたわ。2人はとても仲良しで、故郷は今どうなったなんて話を弾ませていた。兄弟愛というものかと私なりに理解していたの。そうするうちに河を下ってナルシェに行くことになったけど……紫色のあの変な子に襲われて、マッシュが急流に飛び込んでしまったの。上手に泳いでたから溺れる心配はないにしても、回収はできそうになかった。そのときエドガーが立ち上がったの。マッシュの名を叫んだわ。10年ぶりに再会したのに引き裂かれてしまう。それはきっと哀しいという感情だろうと推測したわ。でも、エドガーったら何て続けたと思う?……」
「『あとは、自分でなんとかしろ!!』」
 言い当ててみせて、マッシュは快活な笑い声を弾けさせた。
「あったなあ、そんなことも」
 リルムはティナの言葉を続ける。私はわけが解らなかった。この人は哀しくないんだろうか。心配ではないんだろうか……でも、今なら解る。心配だったけど信じてたんだわ。信じてたからそう言ってみせたんだわ。今の私なら、あのときのエドガーの表情をどう形容すればいいか解るの。そっくりなのよ、私の村の、いたずらな男の子たちの顔に。
 同時にリルムは、こちらは声には出さずに考える。フィガロの双子の繊細な関係性に気づいていないのは、もしかしたら自分だけなのだろうか。経験豊富な他の大人たちは、全員ちゃんと解っているのだろうか――ひとりの男が自分の意思でとった行動ならば意地も意味もあるのだと。
 それに気づけなかったのは。
 リルムはぐっと帽子を目深に引き下げた。
 やっぱり、あたしが子供だからだろうか。
「……オレの祖国とオレの兄貴は、世界一だよ。ダンカン師匠のもと、功夫を積んだこのオレが言うんだから間違いない」
 力強い声に、炎の爆ぜる音が厳かに同調した。
 リルムは立ち上がり、マッシュの横に立つとぺたぺたと巨躯の肩を叩いた。座っていてもその肩の高さは小柄な少女の肩の高さとあまり変わらない。
「……筋肉達磨も、意外といろんなこと考えてたんだねえ。褒めてつかわす!」
「恐悦至極に存じます」
 それぞれの視線が合わさり、にっと同時に笑った。リルムにとっては自分の劣等感を隠すための精一杯の強がりでもあったが。
「燻製、もうすぐ出来上がると思うけど味見してく?」
「んー、いいや、ありがと。ちょっとやることあるからそろそろ戻るね」
 ひらひらと手を振りながら、リルムは踵を返した。
 彼女の探している人物はここにはいなかった。



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2012/04/03