艇内に戻ったリルムは、甲板へと向かった。 動力部、タンク部、資材倉庫に居住区域。さまざまな階層に分かれた艇内の構造にもいいかげん慣れたとはいえ、それで移動自体が楽になるわけではない。船の最下層部からまっすぐ甲板に向かうとなると、距離はともかく高低差がきつい。何本もの階段をひといきに上りつづけ、いかな成長期の彼女でもさすがに息が切れた。 それでも上ってきたのは、今日のような皆がもの思う夜には、きっと誰かがそこに出ているだろうと思ったからだ。 ほの寒い風の吹きこむ甲板入口から顔を出す。縁にそって規則正しく並んだ飛行灯は、滞空中に見るとまるで祭りの蝋燭みたいでリルムのお気に入りだった。停泊中の今はあいにく消えているが、常夜灯は点いており、あたりは真の暗闇ではない。 薄暗い甲板の舳先には3つの色があった。 まず金色――ややあって銀色――そのすぐ隣に、青。 金糸を背後になびかせた影は、ほっそりした、それでいて隙のない佇まいをしている。かつて帝国将軍と呼ばれていたかの人は、近頃ずいぶん女らしくなったとリルムは思う――向こうはずっと年下の少女にまでそう品定めされているとは思ってないだろうが。言葉使いも物腰も、出会ったばかりのころに比べれば柔らかくくだけてきた。エドガー達と合流したころは更にきつくて厳しい態度だったというから、大した進歩だ。 隣に視線を移し、たゆたう銀髪の賭博師と、青いバンダナを巻いている宝探し屋の背中を見比べる。もしこの場にファルコンに乗りこんで日の浅い者がいれば、彼らを見てこう言ったかも知れない。賭博師は少しばかり野暮が過ぎるのではないか? なぜ早くその場を退散し、2人だけにさせてやらないのか? だが、共に旅を続けてきた仲間たちが見れば、この構図は自然なものだった。 確かにセリスは自分を変えた男と、ロックは共に死線を越えた女と、手を取って歩もうとはしている。ただ彼らはあまりに若く、それに反比例して経てきた過去が複雑すぎた。『その後は』というシャドウの言葉を受けて、恐らく2人は膠着してしまったのだ――考えこみすぎて。 定例会議のあと、きっと彼らは話しあいたかった。自分たちの将来について模索したかった。しかし意識するがゆえの近寄りがたさと、相手の存在の重さとに怯え、声をかけるのもままならなかった。 焦る心を抱えたまま、彼と彼女のどちらかが、夜風に当たろうと甲板に出た。そしてそこに見えたセッツァーの姿に一縷の望みを託したのだ。声をかけて歩み寄り、あれこれと話しかけ、会話が途切れないようにしながら悲痛な視線で訴える。どうか、今しばらくここに居てくれ。あの人が自分を探しにやって来るまで。そしてあの人が来ても、どうかそのままここに居てくれ――2人だけにしないでくれ。自分たちがむしろ向き合うことのできるように。第三者の存在によって空気が和らぐことで、心が重大な決意から逃げなくて済むように……。 無論、これはリルムの推測でしかない。推測でしかないが、当たらずとも遠からずだという自信が彼女にはあった。 そこでその、緩衝材の役回りを引き受けてくれるセッツァーは、結局のところ人が好いのだとリルムは声を立てずに笑う。自分だったらとっとと逃げるかも知れない、あんたらの惚気に当てられるのはご免だよと。別に2人の仲を邪魔したいわけではないが、いい歳して無垢な大人どもをからかってやろうというささやかな悪戯だ。少々困らせてやったところでひびが入るほど、彼と彼女の関係は脆いものではないはずだし。 いや、待てよ。 リルムはふと顎に指を当てた。そこであたしが2人の邪魔をすることの動機は、実は、なくはない……。 本当は、本当は、とリルムは思う。これまで培ってきた彼女への好意や温情を吹き飛ばし、自分の願望だけを述べるなら――実は、セリスにはあまり女らしくなってほしくなかった。 凛とした潔癖さの匂い立つ、優雅にして不折の剣士。性別をどこか超越した美しさ。女らしくなる前の彼女にはそれがあったのだ。帝国による人生の束縛や、苛烈な経験が理由だったとしても、そこにひとつの魅力が存在したのを認めないわけにはいかない。 彼女が人間らしい幸福に一歩近づくたび、引き絞られた弓弦のような緊張は、ゆるゆると緩んで霧散していった。代わりに流れこんできたのは雪解けにも似た瑞々しい戸惑いだった。その変化も可憐だったけれど、少なくとも過去の像は失われた。リルム個人の好みをいえば、創作意欲をかきたてられるのは過去のセリスだったのだ。 もちろん、セリスには幸せになってほしい。彼女の望む自分自身を手に入れてほしい。女性らしい雰囲気を心身に宿し始めたといっても、剣士としてのセリスの強さは変わっていない。ただ、あくまでもリルム個人の美意識の中で、以前のセリス像が失われたのが惜しいという思いが捨てられないのだ。勝手な願望であることは解っているので、間違っても口には出さないが。 銀と、黒と、何かの飾りでじゃらじゃらと構成された、夜目にも派手やかな賭博師の後ろ姿をリルムは視界に捉える。セッツァーはどう思っているのだろう? 聞くところによれば彼は、リターナーの仲間になる直前、オペラ座の女優を誘拐する計画を立てていたらしい。その話を知った一同が、セリスを囮に仕立てて接近をはかり協力を仰いだのだと……。リルムは一度、彼に尋ねたことがあった。みんなが言ってること、あれは本当なの? 本気でオペラ座の女優を自分の女にするために誘拐しようとしたの? 「本当だったら何だ。信じらんない、野蛮だわってか?」 格好よく鼻でせせら笑われた。その反応にリルムは、ついぽろりと本音をこぼす。 「いや、野蛮とかそれ以前に、27にもなる男が女優さんに対してそういう認識をしてたってのが夢見がちすぎて気持ち悪いよ」 毒舌巧者であるはずの、海千山千の賭博師が、口を閉ざした。 数秒ののち、「うっせえよガキ」と芸のない言い返しを残して去ってゆく。当時、あたしのほうに自覚はなかったけど、とリルムは思う。あれは俗にいう一本取ったという状態だったのかも知れない。 あのときは聞きそびれてしまったが、本当は続けて尋ねたいことがあった。――そのあと、セリスのことをその女優さんよりも綺麗だって褒めたのは本当? セリスを手に入れるためにコインで賭けをしたのも? じゃあいま、その女が自分ではない男を見つめているのを、どう思ってるの? ただ、これについて聞き出すのは難しかったろうなと絵師の少女は口を尖らせる。不意打ちの形で一本取ることはできても、己の本心をたやすく垣間見せるほどには賭博師は甘くない。悔しいけどそこはあたしの年季不足だ。 それぞれの色彩を帯びた3つの影が、遠目に見る風景の中で少しだけ動いた。 リルムの位置からは彼らの会話は聞こえない。先程からロックが大袈裟に手を動かし、何かを熱弁しているのは解る。セリスが髪を掻き上げて笑い、真ん中でセッツァーは今、肩をすくめて何か言ったようだ。それを聞いて小突く真似をしてくるロックをゆらりと躱し、彼も笑う。 ……あるいは、もしかしたら、とリルムは続けて考える。 セッツァーとあたしは、同じ損失を被った被害者同士なのかも知れない。 セッツァーは美しいものが好きだ。ファルコンはもとの所有者の好みによるものか、どちらかといえば機能美の船だが、ブラックジャックは少々あざとくすらある装飾美の船だった。見る者を圧倒する漆黒の外観、デコラティブな内装。一夜の夢を見させる客商売の船だから当然といえば当然だが、多分に所有者の趣味が入っていたことは明白だ。 もしかしたらセッツァーも、あたしと同じく、今は失われたセリスの美しさに未練があるのかも知れない。そして、実は、彼にはできたのかも知れない。セリスの内にあった鋭い部分を残しながら彼女を幸福に導くことが。あの不埒な男を選んだ女が得られるものは、可憐さではなくきっと艶やかさなのだろうけど。ぴんと張りつめた硬さを保ったまま、同時に女としての柔らかさを両立させることが、彼にはできたのかも知れない…… でも、自分がどうなりたいか、それはあくまでセリスが決めることだった。 彼女がロックによる新しい自分を欲したのなら、それが彼女の幸福であり真実だ。それにロックと生きるセリスは、いずれ別の強さを手に入れるのかも知れない。艶やかな薔薇には棘があるけれど、可憐な鈴蘭は外見とはうらはらに丈夫な植物でしかも強い毒を持つ。彼女がしたたかな花として開花すればきっと素敵だ。 そしてセッツァーとて、実はまだ諦めてないのかも知れない。彼と彼女の間にわざと立つ、人が好いと思わせたその行為は、本当は自分のための布石かも知れない。かつて惹かれた女を自らの手で甦らせる瞬間を、これからも眈々と狙い続けるのかも知れない…… そのとき彼女が何を思い、誰を選ぶかは、また別の話だ。 リルムはくるりと踵を返した。話しかけはせずこのまま戻ろう。自分の求めている人物は、この中にはいないのだし。 あまりにも微妙で、繊細な、彼らの関係。未だ流動的だからこそ面白い。 ここで他者が顔を突っこむのは、それこそ野暮というものだった。 * * * とつとつと階段を下りてくる、あまり重みを感じさせない軽い足音がする。 その気配に、階段わきの長椅子で考えごとをしていたカイエンは顔を上げた。膝に広げていた古い紙物を取りあげながら急いで声を掛ける。 「ああ、リルム殿。いまちょうど……」 黒い人物と視線があって、ドマの侍は瞬きをした。 自分が勘違いしたのだと気づくのに、しばらく時間がかかった。上階からやってきた人物は、サマサの天才絵師ではなく、闇にも溶ける暗殺者であったのだと。 以前までのシャドウは、まるで足音というものをさせなかった。生命なき無機物のように、完全に気配を断って自らの存在を消す技は、戦闘でこそ役に立ったが集団生活の中ではいささか厄介な面を持っていた。 普通に艇内を歩けば、誰だって少しは足音や気配音を立てる。それによって他者を意識し、挨拶しあったり道を譲りあったりもする。しかし彼だけは別だった。 薄暗い通路や曲がり角で、まさかそこに居るとは思わなかった黒衣の影に驚き、つい悲鳴をあげそうになった仲間は多い。実際にはシャドウのほうが巧みに距離をとっており、誰かと衝突しそうになったことはないのだが、まったく存在を感知できない生き物が気づかぬうちに潜んでいるのはどうにも心臓に悪い。 あれは困るからやめてくれ、船の中でだけは気配をさせてくれ。仲間たちに請われて、覆面で隠された口元は言葉少なに「考慮しよう」とだけ答えた。以来、シャドウは意図的に、ほんのささやかな足音を立てるようになった。 重みを感じさせないその音が、体重の軽い少女の靴音に近しく聞こえたのは本当だ。だが厳密にいえば、両者が似ているのはせいぜい床にかかる圧力の強さだけだった。歩幅の間隔やテンポといったものはまったく似ていない。育ちざかりの少女の軽やかな歩調と、日陰に生きてきた慎重な始末人の歩調とでは似るべくもない。 では、なぜ間違えた? 足音以外の何か、が似ていたのだろうか? 数秒のうちに脳裏を駆けぬけた思考を、顔には出さず、カイエンはにこりと微笑んだ。 「ああ、申し訳ない。シャドウ殿でござったか」 なぜこんな間違え方をしたのかは解らない。だが些細な事だ、たまにはこんな日もある。考え事のせいで不注意になっていた、単にそれが理由かも知れない。 シャドウはつと、相手が手に持っている表装された薄い紙に視線を移した。それに気づいたカイエンは、見やすいように手の内のものを広げて見せる。 「これは拙者が連絡を取りあっている、生き残りのドマ人から譲り受けたものでござるよ。当国に伝わる『水墨画』と呼ばれる絵画の一種で……そう高いものではござらぬがね。リルム殿に水墨画のことを話したさい、たいそう興味を持っていたので貰って来もうした。しかしこの通り、あまり状態がよくない」 黒白のみで描かれた枯淡な絵画の上には、あちこちと虫食いの穴が走っていた。鑑賞に堪えないほどではないが紙自体も黄ばんでいる。 「これを修復できるドマ人は探せばいるかもござらん。だが時間がかかる。拙者は無骨者ゆえ、くにに居たときからそういった才を持つ者との繋がりが少なくてなあ。あるいはリルム殿が絵画の手法を研究するだけなら、このままでも十分なのかも知れぬが……さてどうする、と悩んでいたところでござるよ」 黒衣の暗殺者は頷いた。そうしながらも水墨画から視線を外さない。彼がこういったものに興味を示すのが珍しく、ドマの侍は思わずシャドウの顔を見つめる。 「……それは、例の絵師の作品か?」 質問が、黒一色の発言者にふさわしい低さで届いた。言葉の意味がすぐには取れず、カイエンは眉を動かして聞き返す。 「例の絵師? 誰のことでござるか?」 「……数ヶ月前、男たちだけで酒場にいたとき、おまえは自国の故事としてある高名な絵師の話をしていただろう。その絵はその人物の手になるものか?」 ああ、とカイエンは得心の顔を作る。そういえば確かにそんな話をした。 同時に、かすかに気恥ずかしい思いも胸中に広がる。あのときは少しばかり悪酔いしており、つい後味の悪い話を披露してしまったのだ。 ――ある国に高名な絵師がいた。腕は確かだったが、彼にはひとつの大きな欠点があった。眼で実際に見たものしか描くことができないのだ。 ――そんな彼が、『地獄』の絵を依頼されたからたまらない。弟子を鎖で縛りあげ、猛禽に人を襲わせ、あれこれの悲惨な情景を仮に再現してみては描くが、どうしてもひとつ描けないものがある。燃え上がる車の中で焼け死ぬ女の姿だ。本物を見ないとどうしようもない。 ――ある日、上司に呼び出された彼は、その屋敷で車に閉じ込められたわが娘の姿を見る。 ――車に火がかけられる。娘が焼け焦がれ、悲鳴をあげて悶え苦しみ、やがて息絶える姿を、父親はごく厳かな表情で見守る。 ――絵師は家へと戻り、壮絶なまでにみごとな地獄の絵図を完成させる。 ――数日後、絵師は、自分の部屋で首を吊ったという…… 「いや、この絵は違うでござる」 カイエンは念のため記憶をたぐりながら言った。話の時代背景に詳しくはないが、答えるに難しい問題ではない。 「どこにでもある無銘の絵と聞いているでござるよ。あの故事は、かなり古い時代のものであるからして……そのころ高名であった絵師が残した作品なら、超一級の美術品になるはず。どれだけが戦火の犠牲になったかは解らぬが、もし現存していればなおのこと、このように簡単に譲ってもらえるとは考えづらい。またそれ以前に、水墨画という技法は確か、あの絵師の時代よりも後に成立したもののはずでござる」 「……成程」 シャドウが短く答えた。その様子を窺いつつカイエンは続ける。 「拙者が語っておきながら申し訳ないが、本当のところ、あの故事が実話だという保証もないのでござるよ。古い伝承にはだんだんと、派手な尾鰭や人々の願望が加わって伝説じみてくるものであろう? 元となった話は存外、そこまで凄絶ではないのかも知れぬ。例えばせいぜい……自分の家が火事になったのを見て、『そうか、炎とはこう描けばいいのか!』と口走ったであるとか。むろん確かめる術はござらぬがね」 控えめに冗談めかして言った。相手は再び頷いたが、具体的な返答はしない。 気まずいというほどではないが、ドマの侍は取るべき態度に少々迷いはじめる。彼が何を思って話しかけてきたのかいまいち掴めない。 「それにしてもシャドウ殿が、あの故事に興味を抱いておられたとは。何か心に残った部分がおありか?」 言葉を飾らず、真正直に理由を尋ねた。 シャドウは視線をじっと異国の剣士に向けた。その双眸にはあいかわらず、余人が読み取れる感情の色はない。ただ、標的でもない人間をこのように正面からまっすぐ見つめる行為は、彼にしては珍しい。 相手からひたと視線を外さぬ、単純なその行為が――彼のとてつもない緊張を表わしていたのだとカイエンが知ったのは、全てが終わった後のことだった。 「……おまえだったら、どうした」 短い沈黙ののち、シャドウが口を開いた。 「何をでござるか?」 「おまえには妻子がいたと聞く。……もしおまえが、あの絵師のように、自らの道を極めることを何より欲していたら。剣の技を磨くでも、国への忠義を果たすでも、どれでもよいが……とにかく自らの信念を貫きとおして生きることを固く心に誓っていたら」 黒い男は抑揚なく言葉を紡ぐ。 「そして仮に……おまえの信念が、我が子を斬ることでしか、完成しなかったとしたら」 おまえだったら、どうした。 問いの口調は最後まで平坦だった。 カイエンは言葉なく、その場に立ち尽くした。――自分にそれを聞くのか、というのが偽らざる感想だ。 妻に、愛児に、自分は二度と逢えぬ。その喪失を知っていながら、その選択はありえない。何にも代えがたい己の半身を引きちぎられた、まだ癒えぬ傷口を持てあます夜もあるのに。仲間たちの存在によってかなり薄らいだとはいえ、赤黒くくすぶる憤怒と苦痛に、未だ身を灼かれるときもあるのに―― ありえない。 知らずのうちに険しい表情を作っていたのだろう。シャドウが覆面の奥の両眼を伏せ、あえかな息を吐いた。 胸中の波を抑えつつカイエンは目の前の男を見る。彼の名は、暗殺者だ。その非情さからくる発言なのだろうか。いや……なればこそ逆に、このような問答をすることがおかしい。真に非情であれば両者を天秤にかけるまでもないのだ。つまり彼も迷っているのか。 愚直な自分は他人の真意を汲みとることには長けていない。だが、いま彼が漏らした吐息の正体くらいは推察できる。自分の出した質問に後悔の念を覚えているのだ。それが解る程度には判断力を保てているらしい自分に気づき、カイエンも大きく息を吐いた。 「……いや……他でもないおまえに聞くことではなかったな。赦せ」 謝罪の言葉も、落ち着いていたが真摯さはあった。 シャドウは踵を返して立ち去ろうとする。カイエンは数秒だけ瞑目し、すぐに瞳を開いて黒い痩躯を呼び止めた。 「待たれよ」 妻子は彼の絶対領域だった。しかし、彼もまた自分の大事な仲間だ。 我が子を犠牲にしてまで、ということが前提の質問をしたいのなら、その条件に適っているのは自分しかいない。どんな目的があるのかは解らないが、シャドウは真面目に問うていた。しっかり考えて回答することをこの男は望んでいる。ならばそれに応えるのが礼儀だ。妻も、子も、そうするのが自分らしいと言うだろう。 振り返る相手にぎこちない苦笑を投げて、カイエンは口を開いた。 「……どうするも何も……ありえない、と即答したいでござるよ。愛するものを失うのは耐えられぬ、それが心からの本音であり申す。しかし考えてみれば、それは拙者がそうしたいという願望であって、真実どうなるかの回答ではない」 「おれは」 片手を挙げて、シャドウが対話を中断させようとする。 「おまえの辛苦の記憶を、甦らせたいわけではない」 「いや、真面目に考えさせて欲しいでござる。剣士にとっては重大な話であるゆえ」 カイエンは腕を組み、思案するために顔の角度を落とした。そもそも酒の勢いとはいえ、自分はなぜあのような故事を披露したのだろう。あくまでも伝説のたぐい、実話だと信じていなかった部分はある。だとしてもなぜあの話を選んだか。 恐らくは無意識下で、自分は違う、という確認作業をしたかったのだろう。自分だったら絶対に我が子を選ぶ、選択を誤らぬと――だが、やはりそれは現時点ゆえの判断だ。 「拙者はミナと所帯を持ったとき、これを護るのが己の道と決めたでござる。しかし残念ながら人間は何事にも慣れるものであるから、せっかくの幸福に麻痺することもあろう……持っているものの大切さに気付かず、持っておらぬものばかりに心焦がれる」 シャドウは黙って聞いている。ドマの侍は先を続けた。 「拙者は妻子を失った不幸ゆえに、その大切さを思い知った。だがこの不幸がなかったら、他のものが得られぬ不幸のほうを嘆いていたやも知れぬ。事実、ドマ国が健在であったころは自らの剣や国勤めのことについて思い悩んだものだ。それに惑わされ、迷いぬいて、己の心を保てぬほどになったとき……拙者もまた、何かを犠牲にして信念に殉じることが……もしかしたら、あったのかも知れぬ」 そうありたくはない。そうなりたくはない、という葛藤は消えぬでござろうがね。カイエンは首を上げて天井を仰いだ。 「ただ、今ここで考えぬいたところで、その場に臨んでみなければ解らぬというのがまことであろうなあ。いざそうと覚悟して、刃を抜いて我が子に向けてみても、顔を見た途端そのまま何もせずに走り去って自らの腹を裂いてしまうかも知れぬよ」 「おまえなら、やりかねん」 ただ一言の応答だった。だがなんとはなしに心が通じたような気持ちになり、カイエンは小さな喜びを頬に浮かべた。 「……信念というものは厄介でござるな、シャドウ殿。それを護るなどと言っておきながら、それに殉じるなどとも言う。実に簡単な矛盾があるというのにまるで気付けぬ。小児じみた男の夢を護るための、はた迷惑な装置であるのかもござらぬ……」 侍の言葉を受け止めつつ、シャドウは瞳を閉じた。 彼は先程からずっと、ある像を見つめていた。彼以外の瞳には映らない、彼の瞳からは決して消えることのない、像を。 娘が泣いている。目の前で泣いている。いや、本当は寝ている間に置き去りにしてきた。だから自分を探して泣く姿は、実際には見たことがない。しかし独寝の夜や憔悴の朝に、瞼の裏に浮かぶのはいつも泣きじゃくる娘の姿だった。瀕死の心を抱えてうろつく娘の姿だった。 『●●は、どこ』 ――娘が焼け焦がれ、 『●●は、どこへいったの』 ――悲鳴をあげて悶え苦しみ、 『もう、●●●のところには、かえってこないの』 ――やがて息絶える姿を、 父親は、ごく厳かな表情で見守る。 ビリー、おれは娘を殺した。罪にまみれた父を持つ哀れな娘を殺した。この船に同乗しているのは幸福な娘だ。よい保護者を得て育った幸福な娘だ。断じておれの娘ではない。ビリー、おれはおまえを殺せなかった。楽にしてやれなかった。だから娘を殺した。満足だろう? ビリー。 ……いや、違う、ビリー。おまえのためではない。娘のためですらない。おれがおれの娘を捨てたのは、自分自身のためだ。おれでは娘を幸せにしてやれないという、卑屈な、その実おそろしく身勝手な逃避のためだ。自らの闇に抗おうとしなかった人間の怯懦なのだ。ビリー、おれは自分に人の子の親となる資格を認めなかった。それは確かに信念かも知れない。しかし自分の信念を護るということは、他者を踏み躙ることと同義だ。事実としておれの娘はあのとき踏み躙られた。その信念が一見、立派な姿をしているほど、人は勘違いをする。善悪や是非の問題ではない。その信念がどういう結果を生むのかも偶然でしかない。ただ事実として、信念とは、この世で自分のみを尊重するということなのだ―― 「そういえば、シャドウ殿。拙者もそなたに尋ねたいことがある」 カイエンが黒衣の男に微笑みかけた。 「今日の定例会議のとき、最後になってシャドウ殿は提案されたな――『その後は?』と。ストラゴス殿も言っておられたが、あれは浮足立つ我らにとってとても良い議題であった」 剣士の言葉はゆっくりと紡がれる。親しみをこめて。 「ゆえに拙者としては逆に尋ねたい。そなたは何を思って、あの提案をされたのか?」 シャドウは微動だにしない。 ただ、黒い薄布に覆われた口元が、唇を噛みしめる形に動いたような気がして、カイエンはじっと言葉を待った。 ――おれは。 「おれは、」 とつとつと階段を下りてくる、あまり重みを感じさせない、軽い足音がする。 「……あれ、何してるのさ、こんなとこでおっちゃんたち」 絵師の少女が踊り場から、階下に立つ2人を見下ろした。 「おお、リルム殿。いまちょうど――」 言いかけてカイエンは、寸前まで話していた相手の顔をちらりと見る。 会話が中断されてしまうのを気遣ったのだが、構わんと顎で軽く合図をされ、それに甘えて彼は少女のほうに向きなおることにした。いつかまた聞いてみる機会があるだろうと判断したのもある。 「これをリルム殿に見せようと思っていたでござるよ」 「これって……あれ? 例の、なんだっけ、すいぼくが?!」 少女の声が跳ね上がった。へえ、ほんとにモノクロなんだあと覗きこみ、珍しそうに裏打ちされた厚紙を撫でまわす。 先ほどシャドウに対してなされたこの絵画の説明が繰り返された。修復師を探すか否かという点については、どうせ直すんならその人の仕事も見せてよと言って少女が眼を輝かせる。水墨画はいったんリルムが受け取り、カイエンは普段の復興業務に障らないペースでゆっくり修復師を探すという方向で話はまとまった。 「そういえば、ガウ殿を見かけなんだか?」 くるくると紙物を巻きなおしながら、カイエンが思いついたように尋ねる。 「さっき外で見た。雪男といっしょに遊んでたよ」 「雪男殿と2人だけか?」 「火の番は兄貴分がしてたから大丈夫。ただねえ、草の上でどすんばたん大暴れしてもぐらやねずみに迷惑かけてたから、そろそろ注意しに行ってやんなよ。ああいうのは親のしつけが大事なんだからね」 和やかさを顔に滲ませてカイエンは頷く。子を亡くした父と父を失くした子の間にある、ゆるやかな絆は皆が知るところだ。 いそいそと退出してゆく侍の背中を見送り、リルムはシャドウへと視線を移した。 「あれ、インターセプターちゃんはいっしょじゃないの?」 「部屋で寝ている」 「そっか……無理に起こすのも悪いよねえ」 最近あんまりいっしょに遊んでないなあ、と物足りなさそうに口元に手をやる。その仕草を見てシャドウの眼は瞬間、ある一点に吸いついた。 「指輪をどうした」 「え?」 「いつも着けていた指輪があったはずだが」 ああ、と返事をしてリルムは自分の指を眺めた。首元に手をやり、そこに掛けていた細い鎖のペンダントを胸元から引き出す。 銀鎖の先端には、子供にはやや大きい指輪がぶら下げられていた。 「今はこっちに付けてるんだ。絵を描くとどうしても手が汚れるし、どうかすると疵も入っちゃうし。地肌にさえ触れていれば、これに付いてる守護の効果は得られるしね」 優雅な流線がくねくね絡みあう意匠の小さな貴金属は、年代物のようだった。少女は大きな瞳をきゅっと細め、黒衣の男に疑わしげな視線を向ける。 「ていうか、目ざといなあ! ひとの指輪の有り無しまで気付くなんて。なに、狙ってんの? 金目の物じゃないかと思ってる? 駄目だよ、これは大事な形見の品物だから」 ふんと胸を張る。彼よりずっと低いリルムの身長では、その示威にあまり効果はない。 「目のつけどころは褒めてあげるけどね、これはあいにく人を選ぶ指輪でもあるの。選ばれた人が着けないと意味がないんだ」 「……形見の指輪だと言ったな。ならば余人にとって意味がないのは当然だ」 「それもあるけど、それだけじゃないんだよ」 意地の悪い笑顔をリルムは浮かべた。いいもの見せてあげる、と言いながらペンダントの留め具を外し、指輪に通してあった鎖をするりと抜きとる。 「ちょっと待ってて、こっち見ないで」 シャドウに背を向け、手の中で何かをもぞもぞと操作する。ぱちん、かしゃん、と小さな音をさせたあと、リルムは振り向いて手を差し出す。 彼女の手中にあるのは、今は指輪ではなかった。奇妙な形をした細い輪がごちゃごちゃと絡まりあう針金の塊のようなものになっている。 「仕掛け指輪っていうんだよ。一種の立体パズルみたいなもん」 2つの視線が、形を為さぬ金属の上に落とされた。ひとつは幼い誇りを、ひとつは――それに気づく者はいなかったが――云わく言い難い色を含んで。 「こうやって分解しちゃうと、なかなか復元できないでしょ。そんじょそこらの知恵の輪とは比べものにならない難易度だからね。組み上がった状態だと、表面に彫られた魔法のことばが完成するようになってるの。そのことば自体はあまり珍しくないシンプルな守護魔法なんだけど……そこに2重にかけられてるもうひとつの魔法があるわけ。つまり、『自力でこの指輪を組み上げられた者にだけその守護は有効となる』っていう、発動条件のまじないね」 得意げにリルムは相手の顔を覗きこむ。 「ね? 選ばれた人が着けないと意味がないってこと、解った?」 黒衣の男は何秒間か、完全な沈黙を保った。 「……貸してみろ」 ややあって発された要求にも、リルムは動じなかった。まあいいでしょうと余裕の表情で相手に手渡してやる。解けるわけがないと確信していたのだ。 ぱちん、かしゃん、ぱちん。――ぱちん。 小さな金属音とともに、少女の表情からだんだんと色が抜けてゆく。 不格好にもつれていた何本もの輪が、元の意匠に少しづつ近づくたび、リルムの瞳はどんどん見開かれていった。最後の手順を経て、ぱちりとパーツがすべて合わさり、彼女の指輪が形をあらわす。 「………………畜っ生おおおおおおお!!!」 11歳の少女に似つかわしくない言葉が、小さな唇から吐き出された。 「えええええ!! なんでよ、なんで組み上げられちゃうわけ?! なんであんたが出来ちゃうのよお!!」 ものすごい勢いで指輪をひったくり、全身で抱えこむようにして握りしめる。ささやかな自負はひどく傷つけられたらしい。 「なんで、なんであんたが!! そりゃあんたちょっと器用だけど……くっそおおお、言っとくけどねえ、じじいも知らないんだよこれの組み方?!」 燃えるような眼で睨めつけられ、その熱気を躱すためにシャドウは視線を逸らす。 しかし少女は眼を逸らさない。 「なんで、あんたが出来ちゃうのよ!!」 理由はひとつしかなかった。 彼は、彼女も知らないことを知っていた。 かつてサマサにあった、細工物の得意なちっぽけな鍛冶屋の、火焼けした顔の親爺。 指輪の意匠とそこに刻む言葉を決めかねて、腕を組んで大袈裟に悩むあの女。 完成した品物に、さらに自ら発動条件の魔法をほどこす、あの女の白い手―― はあ、と気の抜けた溜息が聞こえた。 「……あーあ……悔しいけど仕方ないか、解っちゃったものは……問い詰めてもどうしようもないよね……」 取り乱してごめん、と言いながら指輪にペンダントの鎖を通しなおす。謝罪の言葉とはうらはらに、その横顔にたっぷり盛りつけられているのは明らかな不満だ。 「やっぱ手先の器用な奴には迂闊に見せないほうがいいのかなあ……ということは、泥棒野郎や傷男にも見せないほうがいいのかも……」 色男には一度見せたことがあるけど、そのときは組み上げられなかったから油断してたんだよなあ。少女は肩を落としてがりがりと帽子ごと頭を掻く。 と思うと、がばりと顔を上げて唐突にシャドウの顔を見つめる。 金褐色の瞳に正面から射られて、暗殺者はごくわずかに息を詰める。 やめてくれ。 同じだ。あの女の、色と。 「これの組み方、他の人には言わないでよ! 誰にも言っちゃだめだよ!」 「……誰にも言わん」 リルムはやっと満足して頷いた。まあ、言葉でうまく説明できるもんでもないけどね、と自分を宥めるように付け加える。 「まったく、こんなところで道草食ってる場合じゃなかった。リルム、今夜じゅうにやることあるんだよね」 インターセプターちゃんによろしく、あんたも早く寝なよ。年齢差から考えれば彼女のほうが掛けられるべき言葉をずっと年長の男に掛けて、リルムは艇内の廊下を去ってゆく。 黒い男は、小さな背に視線をあてたまま、胸中だけで反復した。 ああ、言わない。 誰にも言わない。 彼女は気付いていなかった。 あの指輪には、実はもうひとつ魔法がかけられていることを。 指輪の表面に彫られた守護のことば。その発動条件のまじない。そしてもうひとつかけられた3つめの魔法は、いわば発動条件を補佐するものだった。 すなわち――仕掛け指輪を構成する最後のパーツは、選ばれた血縁の人間の手の中でしか、ぴたりと嵌まる形をとらない。 それ以外の人間の手の中では、絶対に嵌まりようのない形のパーツになる。 よって、もとより物理的に組み上げられないのだ。 『血縁を識別できる魔法があるなら、わざわざ仕掛け指輪にする必要もないだろう』 当然というべき自分の意見に、あの女は『ロマンよ、ロマン』と非論理的な答えを返した。得意な分野の話題ではなかったのでそのまま口を閉ざしてしまったが。 あの女は、娘がまだ本当に小さい、ものの道理も解らぬころに夭逝した。自分はそれと同時に村を出てしまったので、指輪の仕組みについて教えるものがいなかったのだ。あの女は旧友であるストラゴスにも何も説明していなかったらしい。 ということは、指輪の持つ守護の効果と、発動条件のまじないについては、恐らく娘が指輪を手慰みにいじっているうちに自分で発見したのだろう。あの女はサマサの村の中でも稀有な魔術の才を持っていた。血は争えない。 眩暈に似た感覚をおぼえ、シャドウは壁に背をもたれる。 疲労困憊している自分自身に、やっと気がついた。彼は疲れ果てていた。今日だけの話ではない、もうずっと以前から疲弊しきっていたのだ。恐らくはあの村を出た日から絶え間なく。今は呼吸すらも大儀なほどに。 つい数時間前、仲間たちの前で自らが提示した問いかけが、耐えがたい重圧となって肩にのしかかる――『その後は?』。ケフカを斃した、その後は? その問いを発した自分の心を、今ならシャドウは客観的に判断できる。ある意味での、嫉妬、であったのだ。 あのときの自分の質問には、全員が眼を丸くした。しかし彼らは気付いてないだけだ。この船に乗っているすべてのものには、明確に『その後』がある。見据えるべき道がある。自覚の差、覚悟の差はあれどそれを持たないものはない。 持たないものは自分だけだ。 自らの信念の代償として『その後』を差し出した、自分だけ。 シャドウはきつく眉根を寄せる。今まで存在を意識しなかった感情が、身体の芯で軋み、呻き、声高に存在を主張しはじめる――この期に及んで生に焦がれる、救いがたい恥知らず。おれという人間を認めないおれの信念? 笑わせるな、おれは今日も立っている。友を見捨てたくせに人に救われ、のうのうと生きて立っている。彷徨える黒い矛盾、おまえに夜明けは決して訪れない。何を望もうと何に焦がれようと。 道化を斃せば世界は変わる。さあ、その後は? どうすればいいビリー、その後は? 『今、ここで考えぬいたところで』 ドマの侍の言葉が、耳の奥に甦る。 『その場に臨んでみなければ解らぬ、というのがまことであろうなあ……』 そのときが来るまで、自分がどうするかは解らない。 足元から己を呑みはじめた混迷の縁を見下ろして、彼は声もなく夜の隅に立ちつくした。 → 3 2012/04/03 |