「逢いたかったぞ」
 業火の温度でくすぶる憤怒を隠しもせず、ザトーは自分を出迎えた。
 あの偽りの選考大会の会場で。

 喜んだ。
 私は喜んだのだ。
 口では激情を語りながら、狂喜して私は受けて立ったのだ。

 それでいい。
 矛盾に濁り、見苦しく馴れあって腐れていくより。

 美しく澄みきった憎悪に満たされて、燃え尽きるほうがずっといい。





 月の無い初夏の夜、寝静まる街にさまよい出た。
 うらぶれた地方都市には確たる歓楽街もなく、家々を抜ける風は湿気をはらんで涼しい。人の通らぬ往来でひっそり瞬く街灯は、あるだけ逆に寂しい。
 それでもミリアは、こういう夜を嫌いではなかった。
「やはり、貴女も来たか」
 背後から突然かけられた声にも彼女は驚かなかった。街灯に照らしきれないこの街の闇は深い。人外のものが跳梁していても何ら不思議ではない。
 彼は人間――ましてや予測できた人物だ。
「こんばんは。いい夜ね」
 場違いなほどまともな挨拶に、ヴェノムは髪の下で薄く笑った。街灯の下に立つミリアから視線をそらして夜空を見透かす。
「そうだな。我らのような者には動きやすい天候だ」
「情緒が無いのね」
「だが貴女とて、ロマンチシズムに酔って夜歩きに出たわけではあるまい」
 ミリアは微かに苦笑した。
「私が夜を愛でていては、いけないかしら」
「やおら詩人の魂に目覚めた、というわけか?……それもわざわざ、この街で?」
「……少なくとも」
 挑戦的な言葉に対し、彼女の口調にも小さな棘が生える。
「夜でも、風でも、季節でも……何でもいいけど、そういうものを愛でて生きていく自由は……あなたがしがみついているものより、堅実で美しいわ」
「見解の相違だな」
 ヴェノムは小さく、だが明瞭な軽蔑をこめて溜息をつく。平穏に言葉を交わせど、彼らは追うものと追われるものであった。
「何か、手掛かりを見つけたか? あるなら言ってもらおう」
「何も見つけちゃいないわ」
「本当に?」
「質問しておいてその答えを信じない人に、どう返せばいいの」
「もっともだ。だが信じろと言うのも難しい話だ」
 男の声は闇よりも低い。
「よく覚えている。こんな晩だった。……貴女が組織を売ったのも」

 ミリアは瞳を閉じた。
 今も瞼の裏に、鮮明に蘇る、その瞬間のその人の表情を追った。

「一戦交えたいのなら、場所を変えましょう」
「いや、遠慮しておこう」
 ヴェノムはキューを構えるふうもない。
「せっかくの新月のうちにあの方を見つけたい。貴女とやりあっている暇はない」
「そう」
「……だが忘れるな」
「くどいわね」
 ミリアは背を向け、ひとつ強く地を蹴って跳躍した。翼の形に広げられた金髪が優雅に羽ばたき、その身は軽々と舞い上がって民家の屋根にふわりと降り立つ。
「あなたに赦されないことは解ってる。赦して欲しいとも思ってない。どうとでも思ってくれて構わないわ」
 横顔だけでそう言い切り、金色の影はもう一度跳躍する。夜の向こうに掻き消えてゆく残像を、ヴェノムは眉根を寄せて見送った。
 大会終了直後、唐突に消息を絶ったザトーの行方を追い、それらしき人物の情報を手に入れてこの街まで来た。組織を預かる身の自分が苦労して手を広げて得た情報だ。それをいまや一介の脱走者でしかないミリアも嗅ぎつけている。
 ヴェノムは寂しさをこめて、唇を複雑な笑みの角度に歪めた。
 原動力がなんであれ、彼女にそうまでさせる人物は、かの人以外には居ない。



 影の痕跡を追って、ミリアは静謐な夜の街を渡る。
 だが何の情報も得られはしなかった。
 じき夜が明けようという時刻、彼女はふと空を見上げた。頬に感じた冷たさは勘違いではなかった。ぽつぽつと遠慮がちに小雨が降りはじめ、石畳のあちこちに豆粒ほどの染みを作りはじめている。
 身体を冷やしては行動に障る。雨宿りをしようと手近な廃屋の軒先に近づいたところで、彼女はあるものに気がついた。
 壊れかけた窓辺の薄汚れた花壇。
 荒れてしまって見る影もないが、一輪だけ白い花が咲いている。
 その白さを眼に焼き付けながら、次第に数を増してゆく雫のただなかで、ミリアはふいに己の身を抱いた。

 追われる身になるのは覚悟していた。
 恨み恨まれる修羅の道行きも耐えられる。
 なのにささやかな花のただ一輪が、なぜ自分を苦しめる。
 ……これはいつか彼が名前を教えた花だと、なぜ私は覚えている。

 失われた日々。何を見てもそこに帰結する思考。
 逃れられないおぞましさと、その奥に沈む甘さ。

 白い花弁を毟りとってやりたい衝動を、どうにかこらえた。
 つとめて冷静に考える。花には何も罪はない。むしろ見るものもない花壇で、雨に打たれながら精一杯の抵抗として咲き誇る姿はいじましいではないか。
 もっとよく見ようと思い、何気なく花壇に歩み寄る。
 鼓動が跳ね上がる。

 あれは誰だ?
 窓から見える、暗い部屋の中に誰かが居る。
 古ぼけた安楽椅子にぐったりと身を預けている、金髪の長身の男。
 あれは誰だ?

 瞬間、ミリアは眼に止まらぬ速さで、身を縮めて窓の中に飛びこんだ。
 砕け散る破片には構わず次の一秒で身を立て直し、男のほうに飛びかかる。
 肩をつかみ、床に引き倒し、刃に模された髪をぴたりと頸動脈に当てる。
 瞬きをする間もない出来事だった。

 男はのしかかられたままの体勢で、微かに息をつく。
 女の髪から水滴が、ぱたぱたと相手の顔に落ちる。
 ミリアはその顔をよく知っていた。
 久しぶりね。ああすごく久しぶりね。高揚した心の中で饒舌に話しかける。
 さあ、どうしたの。
 殺しあいましょう。
 思考が真紅に染まっていく感覚は、いっそ心地よかった。

「来た、か」
 そう囁かれて、頬を打たれたように我に返る。
 朦朧とした低い声は、それでもとても澄んでいる。殺意を持つ相手に向けるにはありえない響きに、ミリアは思わず動揺する。
「……何」
 訝しんで相手の顔を見つめなおす。眼帯の奥の視線もまた、じっと彼女を捉える。ザトーは力なく身を投げ出したまま動こうともしない。
 動悸が少しづつ速度を落とすたび、信じ難い思索がミリアの脳裏を占めてゆく。
 おとなしく死を受け入れるつもりなのか。
「何なのよ!」
 激昂して思わず叫んだ。いまさらのように潔くなるな。
 ひとりだけ先に、さっさと楽になる気か。
「なぜ抵抗しない。戦え!!」
 そこまで言ってやっと気づいた。相手の顔はやつれ、異常に生気が無い。
 べったりと疲労の色が貼りつき、ずいぶんと痩せている。

 嘘のように胸が冷たくなった。
 話には聞いていた。予感もしていた。
 失踪してからずっと、彼を見かけた人々から伝え聞く、ザトーの様子はおかしかった。
 口を噤む彼女に、床に引き倒された男は天井を見上げたまま微かに頷く。抑揚なくミリアが事実を確認した。
「……喰われはじめて、いるのね」
「……今夜は、新月だ」
 その声に激しい感情はなかった。
「今夜だけは、あの影の自我が……僅かに弱まる」
 多大な努力を要しながらザトーは細く息をつく。だが、それだけの話だ。自分自身で居られる時間は日ごとに短くなる。
 ミリアは頭の片隅で思い出す。それで銀髪のあの坊やは、せっかくの新月のうちにと言っていたのか。禁獣の自我が弱まる時期を彼は把握していたのだ。
「……それで、諦めきってる、ってわけね」
 愉快そうに聞こえるように無理やり語尾を上げる。ああ、でも、畜生。
 たっぷり嘲りを込めたつもりなのに、どうしてこうも自分の声は頼りない。
「恐ろしくはないの? 実感が沸かないの?」
「……恐ろしい」
 男は正直な心情を吐く。
「私は、とても恐ろしい……」
 影ではなく、他の何者でもなく、おまえが。心中でそう引き継いでザトーは喘いだ。
 殺すために挑まれることもないまま自分は売られた。自分と彼女のために揺るがぬ力を求めた結果、その女に売られた。だが今までその怒りで前進できた。おまえがそう出るならそれでいい。これより我らを繋ぐのは紅蓮の鎖だ。地の涯てまで追い、屠り、ただ一片の肉塊になるまで総身を掻き裂いてやる。そして溢れた血に自分も溶けてやる。そのつもりだった。
 だが禁獣に取り込まれ、やっと理解した。揺るがぬ力など自分の内にはありえない。
 這い上がったものは砂の楼閣で、自分が彼女に与えた力は枷でしかなく、憎まれるべき理由しかそこには見当たらず――
 挑むにも値しない赦されざる者。自分は彼女にとってそれだけの存在だった。
「……だが、その一方で、ずっと、……」
 待っていた。
 紛れもなく、おまえを待っていた。
 ザトーの薄い唇が動き、だがそれは言葉を為さずに笑みの形を作る。
 この期に及んでまだ言えない。言ってはいけない。
 せっかく彼女が殺しに来てくれたのだから。
 待っていたなどと、言ってはいけない。

 相手を引き倒した姿のまま、ミリアは動かない。
 私にどうしろというの。
 こんなものが欲しかったんじゃない。
 自分から喉を差し出す、恭順な獲物が欲しかったんじゃない。

「……殺さない」
 襟元を掴んで、上体を無理やり引き起こす。至近距離から眼を据えて言う。
「まだ、殺さない」
 男の肩がぴくりと揺れる。
「……何故だ」
「何故かしらね」
「…………殺せ……!」
 穏やかな口調に焦りが混じる。ミリアは唇を歪めた。いい気味だ。
「今、殺さなければ……」
「喋るな」
 ほとんど脅すような響きに、ザトーは言葉を失う。
「堕ちていくといいわ。それまで、待っていてあげるから」
 ねっとりと、獲物を嬲るように発音する。
「完璧に喰われてしまうまで、待っていてあげる。それから殺してあげる。
自分を喪う恐怖を、存分に味わうといいわ」


 あなたを喪った私の痛みを、あなたも味わうといいわ。


 口元を震わせる相手の表情に、ミリアは暗い喜びと灼けるような疼きを覚えた。
 いくらでも無慈悲になれる。利己的になれる。なのに逃げ出したい。解放されたい。
 欲しいものを、欲しいと言えない。
「……餞別よ」
 泣き出したくなる衝動を隠して、乱暴に口付けた。
 ひたすら冷たい舌を絡ませたころにはもう、思考が麻痺していた。独りで眠るのには、とっくに慣れていたはずなのに。
 かつて夜毎に触れていた、その感触を、温度を、匂いを、ミリアは自覚しないままに貪った。



 時間が欲しい。何もしないための時間が欲しい。
 ふたつの命がここにあるだけでいい。
 あなたとわたしは何者でもなく、名すらなく、ただの、
 …………



 雲の向こうで空がしらじらと染まる。
 仄かな光が、暗い部屋の中の動けない男と、その上に横たわる女を浮かび上がらせる。
 女は男の頬に触れ、その指は金髪に絡み、ぐしゃぐしゃと乱すような愛撫を繰り返す。そしてまた、何度目か解らない口付けを落とす。
 唇の隙間から、はあ、と吐息が触れあう。甘くも熱くもない情欲だけが糸を引いて残る。鳥肌の立つその感覚を息を殺して味わう。
 闇が次第に薄くなる。壊れた窓から無慈悲な暁が忍び寄る。
 ごく淡い光に、ごく淡い影が落ち……
 突然、それは質感をもって膨れ上がった。
「!!」
 驚いて身を起こした隙に、漆黒の影がザトーを飲みこむ。
 男の身体がばね仕掛けのように跳ね上がり、人間とは思えない動きで飛びずさる。身構えるミリアには眼もくれず、影は恐るべき疾さで跳躍し、まず天井にべたりと取り付き、跳ね返って窓へと飛ぶ。
 素早く窓枠を乗り越え、吐き捨てるような唸りを残して、黒い禁獣は壁を蹴って暗紫の空へと躍り出る。一瞬のうちに形成された黒翼がごう、と風を打つ。
 薄闇にまぎれ、たちまち見えなくなった。

 相手が完全に去ったのを確認してから、ミリアはのろのろと立ち上がった。新月の翌朝では勝てないと踏んで、逃げを決めこんだのだろう。
 すぐ追えばたやすく勝てるかも知れない。
 だが、今は追うつもりはなかった。たとえ一方的であっても、それは最後の約束だった。
 ふと顔をあげ、ミリアは窓から黎明の空を見あげる。
 雨は銀の針のように細い。あえかに色づく雲は低く、切れ間からのぞく空は朱鷺色だ。
 それはとても綺麗だった。

 夜でも、風でも、季節でも……何でもいい。
 揺るがないものは美しい。嘘をつかないものは美しい。
 ほんとうのものは、いつも美しい。

 それが私にとって、痛いものでも、苦しいものでも、暗いものでも構わない。
 ほんとうのものが欲しかった。

 私を憎むあなたなら、と、思ったのに。



 頬を流れる雫の熱さに、ミリアは立ちすくんだ。
 これが最後と誓いながら、ただ必死に、喉の奥から漏れる嗚咽を噛み殺した。



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