詰め所での打ち合わせに参加してもらう間、ずっと。
『あなたの立場は保証される』
『あなたは罪に問われない』
『これは正式な司法取引だ』
 カイは同じことをつい何度も、繰り返しその人に言い聞かせてしまった。

 その女性が、不気味なほど無機質な静けさに満ちていたからだ。


 女性がもたらした暗殺計画の情報は、実に詳細で的確だった。
 布陣を引いて待ち伏せながらカイは考える。よほどの地位になければ、こんな機密情報を横流しすることは不可能だ。あの若さでよほどの能力者なのか……あるいは重鎮の係累者か。
 いずれにせよ、そういうクラスの人物が更正の道を選んでくれたのは有り難い。神が与えた僥倖に感謝しつつ、彼は愛剣の柄を握りなおした。

 勝負は一瞬でつける。それはカイにとって美学でも目標でもなく必然だ。
 勝利の女神は気が短い。たった1秒待たせただけで、晴れやかな微笑は不機嫌な苛立ちに歪み、哀れな男どもを弄ぶ残忍な魔女へと変貌する。聖戦でいやというほど思い知らされたことだ。
 みごとに統率された鮮やかさで、警察機構は現場に現れた『組織』構成員たちを包囲し、確保する。彼らはいずれ劣らぬ異能の群れだが、カイの率いる部下たちとて伊達に穏やかならぬ時代を治めていない。もっとも、最小限の流血で済んだのは、あらかじめ例の女性からもたらされた情報の力が大きいだろう。カモフラージュのためにいったん組織に戻っていた彼女には、当然手出しをしなかった。
 頭領のザトー=ONEが、カイの元に引っ立ててこられる。
 禁呪と呼ばれる術を防ぐため、特殊な枷に何重にも捕縛された黒衣の男を見て、カイは疑問を抱いた。裏社会を牛耳るアサシン組織頭領ともなれば、たとえ捕らえられようとも不敵に開きなおるか、あるいは虚飾が剥がれて無様に騒ぎたてるかと踏んでいたのだが――どちらでもない。
 何かを、誰かを必死に探しているのだ。
 左右から拘束されつつも懸命に首を回し、見えない眼でひたすら周囲を窺っている。自らの敗北を嘆く様子すらない。完全に心ここに在らずだ。
「……誰かを探しているのか?」
 カイの質問も彼の耳には届かない。様子から察するに、どうやら誰か仲間の安否を気遣っているように見える。冷徹で知られるこの男の評にそぐわぬ行動を、カイはつい奇妙な面持ちで見守る。
 す、と誰かが横に進み出た。
 あの女性だった。とても静かに口を開く。
「……そう、今はただの盲人ね。影も抑制されているから」
 びくりとザトーの動きが止まる。
 声のした方向に頭を向ける。理解できない、混乱しきった色が男の顔を青白く彩る。
 カイは思わず女性に声をかけた。
「どうしましたか? この男に何か用でも?」

 全てを悟ったその表情を、どう形容すればよかったか。
 男の唇が震え、導き出された名は、劫火の色をしていた。



「……ミリアアアああああああああああああああああ!!!!!」



 獣の咆哮に、カイは立ちすくむ。
 彼が探していたのは――気遣っていたのは――この女性だ。

 自分が叫んでいることにも気付かず、別人のように身を捩って暴れ狂う罪人を、部下達が慌てて引きずっていく。
 カイは反射的に隣を見る。
 哀れむでも蔑むでもない。ただ色のない表情で、彼女はザトーを見ていた。
 中の見えない護送用の小さな檻に押し込めたところで、カイは思わず詰めていた息を吐き出す。身柄を拘束したはずの相手に、こんなに気圧されたのは初めてだ。
 戦闘時における純粋な武の気迫であれば、カイを凌駕する者はそういない。その彼がいま圧倒されたのは、人間としての生臭い凄みめいた何かだった。
 女性の漏らした小さな呟きが、耳に届いた。
「私の名前……呼んだわね」
「……はい」
 気まずい思いで答える。警察機構の一員として、被疑者確保の現場には数えきれぬほど立ちあってきた。似たような状況を何度も目撃している。いや、そうした経験などない人間でも容易に推測できるだろう。
 ああいった状況で男が叫ぶ女の名はどのような関係性を意味するか。
「…………名前、呼んだわ…………」
 誰に聞かせるでもないその声に、ふと眉根を寄せる。
 彼女の声に、かすかに何かが――例えば悦楽に似た何かが――溶けているような気がしたのだが、いや、待て、それはなんという失礼極まりない感想だろう。己の不謹慎さを恥じた彼はすぐ、頭を振ってその思索を捨てた。
 静謐な女の声は自問を続けた。陶然と酔っているようにも、己の行為を噛みしめているようにも聞こえる。
「見えなくなってしまえば、それでいい? もう二度と聞かなければ、触れなければ、感じなければ……それでいい……?」
「勿論です」
 カイは襟を正し、胸を張って返答した。何であれこの人は、思うところがあって組織を捨てたはずだ。
 今まで身を寄せていた場所への感傷的な未練は、未だ胸に燻っているかもしれない。だが罪悪感を持つ必要は決してない。
「今回はよくご決断されました。後のことはどうか我々にお任せください。安らかな正道の日々が貴女を待っています。ご協力、本当に有難うございました」
 つとめて力強く言う。安心させたつもりだった。
 悪に鉄槌を、民に平穏を。それが自分の仕事だ。

 女性は長く沈黙していたが、やがて顔を上げた。
 微笑みかけようとして、…………カイは怯んだ。
 鋭い動作でくるりと踵を返し、女は短い金髪を翻らせて去ってゆく。目に見えぬ鬼気を宿した後ろ姿を、彼はただ唖然と見送るしかなかった。

 彼女の瞳が、なぜ突き刺すような激しい憎悪で自分を射ていたのか、カイにはついに理解できなかった。











NIRVANA=涅槃=全てが去った無我の境地、なのですがそれを望みながらもそれに堕ちられない話。
この小説は『5.断罪』に少しだけリンクしています。